司馬氏の服喪

又凡人不解、呼謂中國之人居喪者多皆奢溢、殊不然也。吾聞晉之宣・景・文・武四帝居親喪、皆毀瘠踰制、又不用王氏二十五月之禮、皆行七月服。于時天下之在重哀者、咸以四帝爲法。世人何獨不聞此而虚誣高人、不亦惑乎。
(『抱朴子』外篇、譏惑)

東晋の葛洪『抱朴子』によれば、司馬懿司馬師司馬昭司馬炎は全員が親の喪に際しては「三年の喪」を本来の決まり以上に痩せ細るまでやり切り、しかも王粛の「三年の喪は実質25か月」という説によらず、27か月説に基づいたのだという(つまりより長くやった)。


喪を厳格に行う者の間では、司馬氏のそれが手本になったということである。





喪はマジでやる、が司馬氏の家風だったのか、それとも一種の人気取りのための手段でしかなかったのか、そもそも実際は本気でやってなかったのかは分からないが、何代もそういうことを続けたということが評判になっていたというのはあったのだろう。