王莽シンパ?

以前の記事(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20140518/1400338970)で、前漢末に「潁川の鍾元」という人物がいて、その出身と性格などからしてあの鍾繇さんたちと同族ではないかという推測した。




ところで良く考えてみると、彼が廷尉(この時期は実は廷尉は大理と改称していた頃である)になった時期というのは、多数の平帝関係者、王氏関係者、皇族、有力者が処刑された大事件「呂寛事件」があった頃である。



王莽はこの事件が自身の嫡子によって引き起こされていながら、最終的には政敵を葬って焼け太りしたと評価できる。




その時期に廷尉となっていたということは、その事件の処分、量刑に絶大な影響力を及ぼしたであろう人物が「潁川の鍾元」であった、ということである。




王莽が政敵をどんどん排除できたのは、もしかすると鍾元が廷尉として王莽に有利なように取り調べや量刑を決めて行った、というのも理由の一つだったかもしれないなあ・・・。







前漢末に既に栄えていた鍾氏が後漢後半まで少々地味な感じだったのは、もしかしたら政敵を葬ってきた超バリバリの王莽シンパだった過去が後漢の世に悪影響を及ぼしていたから・・・?




はは、まさかね・・・。