三代の忠義者

郡吏王青者、祖父翁、與前太守翟義起兵攻王莽、及義敗、餘衆悉降、翁獨守節力戰、莽遂燔燒之。父隆、建武初為都尉功曹、青為小史。與父倶從都尉行縣、道遇賊、隆以身衛全都尉、遂死於難、青亦被矢貫咽、音聲流喝。前郡守以青身有金夷、竟不能舉。(張)酺見之、歎息曰「豈有一門忠義而爵賞不及乎?」遂擢用極右曹、乃上疏薦青三世死節、宜蒙顯異。奏下三公、由此為司空所辟。
(『後漢書』列伝第三十五、張酺伝)

後漢の張酺という者が東郡太守になったときのこと。



東郡というのは前漢末に太守の翟義というヤツが盛大に王莽に対して反乱を起こしたところだったのだが、そこの現地官吏であった王翁は翟義に殉じて焼き殺された。



王翁の息子の王隆は光武帝時代に賊に遭遇し、上司である都尉を命がけで守って戦死した。



王隆の子の王青もその時に喉に矢を受け、命は取り留めたがかすれ声しか出なくなるという障害が残った。



しかも、その後の太守は王青を戦傷者であることを理由に推挙しないでいたという。




張酺は王青が漢王朝に三代続けて殉じながら不遇であることを嘆き、自ら郡の要職に任用した上、三公にも彼を抜擢するよう推薦したという。






父が都尉を命がけで守り、本人もまたその戦いで重傷を負ったが戦傷者となるや捨て置かれたというのは、地味にこの時代の闇かもしれない。



まあこの時代、彼に限ったことでもないかもしれないが。

蘇武なんかも一家で漢王朝に尽くした結果は散々だし。