政界復帰への努力(非合法)

先是、新都侯王莽就國、數年、上以太皇太后故徴莽還京師。莽從弟成都侯王邑為侍中、矯稱太皇太后指白哀帝、為莽求特進給事中。哀帝復請之、事發覺。太后為謝、上以太后故不忍誅之、左遷邑為西河屬國都尉、削千戸。後有詔舉大常、莽私從(何)武求舉、武不敢舉。
(『漢書』巻八十六、何武伝)


前漢末期。



王莽は哀帝の時に大司馬を辞めて領国へ行かされていたが、その後伯母である太皇太后の希望により都へ戻ることを許された。




王莽とその支持者は更に政界復帰を狙ったらしく、王莽の従弟である王邑は哀帝に対して王莽が特進・給事中(皇帝の近従)となることを太皇太后が望んでいると偽った。



つまり王邑は太皇太后をダシに使い、哀帝に大嘘をついたのである。




だが哀帝太皇太后に対して「陛下が望まれているということですから王莽を特進・給事中にしようと思います」と申し上げたところで嘘が発覚した。


太皇太后が「え?なんですそれは?」みたいな反応をしたのだろう。




皇帝に対し嘘をついた王邑は本来なら誅殺されるところだが、太皇太后の甥であることから左遷で済ませたのだった。




またその後、大臣(九卿)である太常の後任を選ぶ際、王莽は内々に何武に対して自分を推薦してもらうように求めたが、何武は推薦しなかったということもあったという。






哀帝期の雌伏時代とも言える頃の王莽はギリギリアウトな方法まで使って政界復帰を目論んでいたらしい。