獻帝時、涼州數有亂、河西五郡去州隔遠、於是乃別以為雍州。末又依古典定九州、乃合關右以為雍州。魏時復分以為涼州、刺史領戊己校尉、護西域、如漢故事、至晉不改。
(『晋書』巻十四、地理志上、涼州)
後漢末、涼州のうち河西の五郡だけを雍州としたが、その後、元の涼州全部と三輔を合体させて全体を雍州とした。
だが魏になるとまた河西を涼州とした。
前者のことは以前の記事で確認したとおりである。
河西の人間からすると、自分の住んでいるところは涼州と呼ばれていたと思ったら雍州に変わり、隣の隴西方面が涼州だったのだが、今度は隣も含めて雍州となり、今度は隣が雍州のまま自分の方だけが涼州になった、という摩訶不思議な変遷を辿ったということになる。
河西と隴西は雍州と涼州という州名を完全に入れ替えたということだ。
あるときまで群馬とよばれていた地域が埼玉になり、埼玉とよばれていた地域が群馬となった、とでも考えてみたら、こんな酷い話は無い、と感じるところである。