『三国志』武帝紀を読んでみよう:その38

その37(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/01/12/000100)の続き。





秋七月、始建魏社稷宗廟。
天子聘公三女為貴人、少者待年于國。
九月、作金虎臺、鑿渠引漳水入白溝以通河。
冬十月、分魏郡為東西部、置都尉。
十一月、初置尚書・侍中・六卿。
馬超在漢陽、復因羌・胡為害、氐王千萬叛應超、屯興國。使夏侯淵討之。
(『三国志』巻一、武帝紀)

魏公となった魏武の娘が献帝後宮へ。


獻穆曹皇后諱節、魏公曹操之中女也。建安十八年、操進三女憲・節・華為夫人、聘以束帛玄纁五萬匹、小者待年於國。十九年、並拜為貴人。
(『後漢書』紀第十下、献穆曹皇后紀)


献帝の皇后伏氏は健在なので、王莽が自分の娘を皇后にしたような事になったわけではない。




魏郡を東西に割って、それぞれに都尉を置いたという。都尉を複数置くのは前漢の大きな郡でしばしば行われていたので珍しくはない。


ただ、この場合はわざわざ郡を巨大にした上で、やっぱり広すぎるとなったわけだから、なんかこう計画性が無いんじゃないかって思ってしまう。




馬超、復活。

八月、馬超涼州、殺刺史韋康。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀、建安十七年)


というか、前年の段階で既に涼州刺史韋康は殺されており、残念ながら夏侯淵のせっかくの進軍速度と決断力も役に立てられなかったらしい。

馬超之戰敗渭南也、走保諸戎。太祖追至安定、而蘇伯反河間、將引軍東還。
(楊)阜時奉使、言於太祖曰「超有信・布之勇、甚得羌・胡心、西州畏之。若大軍還、不嚴為之備、隴上諸郡非國家之有也。」太祖善之、而軍還倉卒、為備不周。
超率諸戎渠帥以擊隴上郡縣、隴上郡縣皆應之、惟冀城奉州郡以固守。超盡兼隴右之衆、而張魯又遣大將楊昂以助之、凡萬餘人、攻城。阜率國士大夫及宗族子弟勝兵者千餘人、使從弟岳於城上作偃月營、與超接戰、自正月至八月拒守而救兵不至。州遣別駕閻温循水潛出求救、為超所殺。於是刺史・太守失色、始有降超之計。阜流涕諫曰「阜等率父兄子弟以義相勵、有死無二。田單之守、不固於此也。棄垂成之功、陷不義之名、阜以死守之。」遂號哭。刺史・太守卒遣人請和、開城門迎超。超入、拘岳於冀、使楊昂殺刺史・太守。
(『三国志』巻二十五、楊阜伝)


なお涼州の楊阜は帰ろうとする魏武に馬超の危険性を唱えており、魏武も理解を示したが結局帰った。夏侯淵の手勢は涼州救援には不足する数だったのかもしれない。