皇帝たる者

及光武破王尋等、還過潁陽、(祭)遵以縣吏數進見、光武愛其容儀、署為門下史。
從征河北、為軍市令。舍中兒犯法、遵格殺之。光武怒、命收遵。時主簿陳副諫曰「明公常欲衆軍整齊、今遵奉法不避、是教令所行也。」光武乃貰之、以為刺姦將軍。謂諸將曰「當備祭遵!吾舍中兒犯法尚殺之、必不私諸卿也。」尋拜為偏將軍、從平河北、以功封列侯。
(『後漢書』列伝第十、祭遵伝)

光武帝の配下に祭遵という男がいた。



彼が軍市令となっていた時、光武帝の軍にいた子供の犯罪を摘発したが、おそらく素直に縛につかなかったのだろう。接近戦の末にその子供を殺してしまった。



光武帝はそれを怒り、祭遵を捕えようとしたが、主簿の「彼は整然とした軍を作るため任務通りに仕事をしただけです」という説得によって思いとどまったという。





さて、この光武帝が殺されたことを妙に怒ったという「舎中児」とはいったい何者なのだろうか。


どうも光武帝の軍営内にいたように思われるのだが・・・。





もしや、光武帝にとっての籍孺的なアレなのだろうか・・・?



光武帝は高祖の再来だからね。当然それもたしなんでるよね(断言)。