再編集

(杜夔)黄初中、為太樂令・協律都尉。
漢鑄鐘工柴玉巧有意思、形器之中、多所造作、亦為時貴人見知。(杜)夔令玉鑄銅鐘、其聲均清濁多不如法、數毀改作。玉甚厭之、謂夔清濁任意、頗拒捍夔。夔・玉更相白於太祖、太祖取所鑄鐘、雜錯更試,然後知夔為精而玉之妄也、於是罪玉及諸子、皆為養馬士。
(『三国志』巻二十九、杜夔伝)

漢末、亡失雅樂、黄初中、鑄工柴玉巧有意思、形器之中、多所造作。協律都尉杜夔令玉鑄鍾、其聲清濁、多不如法。數毀改作、玉甚厭之、謂夔清濁任意。更相訴白於魏王。魏王取玉所鑄鍾、雜錯更試、然後知夔為精、於是罪玉及諸子、皆為養馬士。
(『宋書』巻十一、律暦志上)


この二つの記事は同じようなことを言っているが、実は微妙に違う。




上の『三国志』の記事は杜夔と柴玉が争ったのは太祖すなわち曹操生存時の話とされているのだが、下の『宋書』の記事では黄初中すなわち曹操死亡後の話となっているのだ。





下の記事については「黄初中」のことと言いながら「魏王」と言っており、実はここも整合性が怪しい。黄初中なら「帝」ではないか。






おそらくだが、これは上の記事の一番最初の「黄初中、為太樂令・協律都尉」に問題がある。





たぶんこれは「杜夔は後に黄初年間に太楽令・協律都尉になりました。ところでそれより以前、杜夔と柴玉の間で論争になって曹操が決着を付け柴玉は馬飼いに降格されましたということがありました」と、「太楽令・協律都尉になったこと」と「柴玉と論争になったこと」は時系列順になっていないということなのだ。

そうでないと黄初年間の後に太祖の話になるのはおかしいからだ。





だが『宋書』の記事(またはその原資料)では、『三国志』の方の記事(またはその原資料)について、「黄初年間のこと、太楽令・協律都尉の杜夔と柴玉の間で論争になって曹操が決着を付け柴玉は馬飼いに降格されましたということがありました」と、「太楽令・協律都尉になったこと」と「柴玉と論争になったこと」を時系列順であると誤解し、そのまま記事を再編集してしまったのではなかろうか。






当然と言えば当然だが、時代が下ってからの再編集はこういった可能性をどうしても伴うものなのだろう。