皇帝と廷尉

治書侍御史、案漢宣帝幸宣室齋居而決事、令侍御史二人治書侍側、後因別置、謂之治書侍御史、蓋其始也。
及魏、又置治書執法、掌奏劾、而治書侍御史掌律令、二官倶置。
及晉、唯置治書侍御史、員四人。
泰始四年、又置黄沙獄治書侍御史一人、秩與中丞同、掌詔獄及廷尉不當者皆治之。後并河南、遂省黄沙治書侍御史。及太康中、又省治書侍御史二員。
(『晋書』巻二十四、職官志)

是時武帝置黄沙獄、以典詔囚。以(高)光歴世明法、用為黄沙御史、秩與中丞同。遷廷尉。
(『晋書』巻四十一、高光伝)

晋の武帝の時、「黄沙獄」というものが置かれたそうな。



これはどうやら皇帝じきじきの命令で取り調べをする「詔獄」を扱う獄で、その獄の実質的な管理職として「黄沙御史(侍御史)」という者を置いたそうな。



御史中丞と同等の俸給であったというから、侍御史といってもほかの侍御史よりも一段高い地位にあったようである。





思うに、「廷尉の判断が正しくなかった場合に取り調べる」とあるので、黄沙獄は「廷尉という臣下の判断に対しては皇帝自身すら従うべきである」という漢の文帝と張釈之の故事を克服し、裁判においては皇帝の判断が廷尉にも優先するという新たな原則を立てようとしたものだったりするのかもしれないなあ。


考えすぎかもしれないけど。