ノンキャリア的太守

倉慈字孝仁、淮南人也。始為郡吏。建安中、太祖開募屯田於淮南、以慈為綏集都尉。
黄初末、為長安令、清約有方、吏民畏而愛之。
太和中、遷燉煌太守。
(『三国志』巻十六、倉慈伝)

曹魏の倉慈は淮南の屯田において「綏集都尉」になったという。おそらく建安14年の芍陂屯田であろう。



しかし彼の官歴が次に分かるのは黄初末の長安県令。



建安14年から黄初末までは20年弱の間が空いている。



綏集都尉になったのは建安14年より後である可能性もあるが、何にしろ長安県令になるまで結構時間がかかっていたようだ。



その後に太守になるが西の果ての敦煌太守である。




倉慈は敦煌において慕われていたという話があるため分かりにくくなっているような気もするが、「上」に行くことが期待できず出世が遅い「ノンキャリア」だったのではなかろうか。



ぶっちゃけ、出世コースに乗っていたら敦煌太守にはならないだろう。左遷か重要視されていない人物が起用されそうな場所ではないか。





まあ、若くもないが、それゆえに実務的経験は豊富な「ノンキャリア」だからこそ太守として熟練の味が出せたのだとも言えるのかもしれない。