郡太守と屯田都尉

其後發兵、(賈)逵疑屯田都尉藏亡民。都尉自以不屬郡、言語不順。逵怒、收之、數以罪、撾折腳、坐免。然太祖心善逵、以為丞相主簿。
(『三国志』巻十五、賈逵伝)

後漢末の賈逵は曹操の元で弘農太守となっていたが、兵を集める際に屯田都尉が逃げた民を自分のところに隠してこちらの管轄に返そうとしないと疑った。


自郡の民が屯田民になっていた(されていた)ということであり、おそらく郡の太守には屯田民を徴発したりする権限がなかったのだろう。



そこで賈逵は屯田都尉に民を返せと言ったのだろうが、屯田都尉は郡太守の権限が及ぶところではないということで従おうとしなかったという。



そこでブチ切れ金剛の賈逵はその屯田都尉を捕まえて折檻し、足を折るに至ったという。




屯田都尉も屯田都尉なら、賈逵も賈逵といったところだろう。





この話は、屯田民が郡太守とは全く別系統であることと、この頃には屯田は同じ曹操支配下の領内からの逃亡民でさえもそのまま抱え込み、郡太守の側にとっては迷惑な時があったことを示していて興味深い。