左校

帝聞大怒、徴(朱)穆詣廷尉、輸作左校。
【注】
左校、署名、屬將作、掌左工徒。
(『後漢書』列伝第三十三、朱穆伝)


後漢では、何らかの罪に触れた官僚が「輸作左校」「論左校」といった処置を受けることがあった。


つまりは刑罰である。




「左校」とは中央官庁の一つ「将作大匠」管理下の官署で、ここには「左工徒」と呼ばれる刑徒が所属したらしい。


将作大匠は皇帝の土木工事専門部局なので、その土木工事の人夫として強制労働させるものだったのだろう。




秋七月丁酉、初復右校・左校令丞官。
(『後漢書』本紀第五、孝安帝紀、延光三年)

だがその「左校」が独立したセクションになったのは安帝の末期のことらしい。


それまでも同種のものがあったのかもしれないが、その時期以降「左校」の機能が強化されたことは間違いないだろう。




もしかしたら、官僚の政治犯など「左校」を捕まえ監視しておくのを裏の目的としていたのかもしれない。