魏志曰「曹公置典農中郎將、秩二千石。典農都尉、秩六百石、或四百石。典農校尉、秩比二千石。所主如中郎。部分別而少、為校尉丞。」
(『続漢書』志第二十六、百官志三、大司農注引『魏志』)
どうも後漢末・曹魏の「典農」っていうのがわかるようでわからない。
これによると「典農中郎将」「典農都尉」「典農校尉」の三つがあるようだが、官位では「典農中郎将」「典農校尉」「典農都尉」の順になるようだ。
そしてこの廃止の命令を見ると、「典農都尉」は県令・県長に当たるようだ。
確かに典農都尉の官位は県令・県長のクラスである。
だが今度は「典農」とだけ言われているのがなんなのかはっきりしない。
おそらくだが、「穎川典農中郎将」などと地名を付けて呼ばれる「典農中郎将」が「中郎将」を省略して呼ばれているのではないか。
つまり、「典農中郎将」が各所の「典農」部のトップで郡県で言えば太守に当たり、「典農都尉」は「典農」部の県令ということなのだろう。
では「典農校尉」はどうなんだろうか。
どうも「典農中郎将」と同等(やや格下だが同じ管轄)のようにも思えるが・・・。
昨日の記事で話題にした「屯田都尉」との関係もよくわからない。
どうも魏に入ってからは出てこないようなので、後漢末にだけあったのだろうか。
ただ、もし「典農」部の「都尉」と格が同じだとしたら、昨日の記事の賈逵は太守であるのに県令と同格でしかない者に反抗されたことになる。
彼がブチ切れしたのはそれも一因かもしれない。