劉文伯

盧芳字君期、安定三水人也。居左谷中、王莽時、天下咸思漢徳、芳由是詐自稱武帝曾孫劉文伯。曾祖母匈奴谷蠡渾邪王之姉為武帝皇后、生三子。遭江充之亂、太子誅、皇后坐死、中子次卿亡之長陵、小子回卿逃於左谷。霍將軍立次卿、迎回卿、回卿不出、因居左谷、生子孫卿、孫卿生文伯。常以是言誑惑安定輭。王莽末、乃與三水屬國羌胡起兵。更始至長安、徴芳為騎都尉、使鎮撫安定以西。
(『後漢書』列伝第二、盧芳伝)

新末に挙兵した勢力の一つを率いた盧芳は安定郡の人間で、安定の異民族と近しい関係にあったらしい。


彼は挙兵にあたりこんなストーリーをでっちあげたのだそうだ。




匈奴の谷蠡渾邪王の姉が武帝の皇后になって、その皇后は太子、次卿、回卿の三人の子を産んだ。

 皇后と太子は江充の乱で殺され、次卿は逃げおおせて後に霍光に擁立され、回卿は左谷まで逃げた。

 霍光は回卿を迎え入れようとしたが回卿はそのまま左谷に居付き、孫卿という子が生まれた。

 その子が文伯、すなわちこの私である」と。



匈奴の人間が武帝の皇后という話も、その皇后が生んだ子が霍光に擁立されたという話も事実ではない。

江充の乱で死んだ衛皇后が匈奴であるという話は伝わっていないし、霍光が擁立した皇帝はいずれもその衛皇后の子ではないのである。


江充の乱、昭帝の擁立、宣帝の生い立ちなどがミックスされている感じだ。




この時代に詳しい人間にとっては噴飯ものだったんだろうが、皇后の経歴などを詳しく知る者はそういなかったのだろうし、皇帝は自分らの血を引いているという設定で匈奴ら異民族の自尊心をくすぐりつつ、江充の乱のように史実も取り入れているので、騙される者も案外いたのかもしれない。




もしかすると、こうやって出自を偽って成功し、そのままその出自を公認させてしまったような者も乱世には少なくなかったんじゃないか。