その8(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180212/1518361438)の続き。
三年春正月癸亥、皇后許氏崩。
戊辰、五將軍師發長安。
夏五月、軍罷。祁連將軍廣明・虎牙將軍順有罪、下有司、皆自殺。校尉常惠將烏孫兵入匈奴右地、大克獲、封列侯。
大旱。郡國傷旱甚者、民毋出租賦。三輔民就賤者、且毋收事、盡四年。
六月己丑、丞相義薨。
四年春正月、詔曰「蓋聞農者興徳之本也、今歳不登、已遣使者振貸困乏。其令太官損膳省宰、樂府減樂人、使歸就農業。丞相以下至都官令丞上書入穀、輸長安倉、助貸貧民。民以車船載穀入關者、得毋用傳。」
三月乙卯、立皇后霍氏。賜丞相以下至郎吏從官金錢帛各有差。赦天下。
夏四月壬寅、郡國四十九地震、或山崩水出。詔曰「蓋災異者、天地之戒也。朕承洪業、奉宗廟、託于士民之上、未能和羣生。乃者地震北海・琅邪、壞祖宗廟、朕甚懼焉。丞相・御史其與列侯・中二千石博問經學之士、有以應變、輔朕之不逮、毋有所諱。令三輔・太常・内郡國舉賢良方正各一人。律令有可蠲除以安百姓、條奏。被地震壞敗甚者、勿收租賦。」大赦天下。上以宗廟墮、素服、避正殿五日。
五月、鳳皇集北海安丘・淳于。
秋、廣川王吉有罪、廢遷上庸、自殺。
(『漢書』巻八、宣帝紀)
許皇后、死す。これはトリカブトを使った毒殺であったと記録されている。
霍光夫人顯欲貴其小女、道無從。
明年、許皇后當娠、病。女醫淳于衍者、霍氏所愛、嘗入宮侍皇后疾。衍夫賞為掖庭戸衛、謂衍「可過辭霍夫人行、為我求安池監。」衍如言報顯。顯因生心、辟左右、字謂衍「少夫幸報我以事、我亦欲報少夫、可乎?」衍曰「夫人所言、何等不可者!」顯曰「將軍素愛小女成君、欲奇貴之、願以累少夫。」衍曰「何謂邪?」顯曰「婦人免乳大故、十死一生。今皇后當免身、可因投毒藥去也、成君即得為皇后矣。如蒙力事成、富貴與少夫共之。」衍曰「藥雜治、當先嘗、安可?」顯曰「在少夫為之耳。將軍領天下、誰敢言者?緩急相護、但恐少夫無意耳!」衍良久曰「願盡力。」即擣附子、齎入長定宮。
皇后免身後、衍取附子并合大醫大丸以飲皇后。有頃曰「我頭岑岑也、藥中得無有毒?」對曰「無有。」遂加煩懣、崩。
衍出、過見顯、相勞問、亦未敢重謝衍。後人有上書告諸醫侍疾無状者、皆收繫詔獄、劾不道。顯恐急、即以状具語光、因曰「既失計為之、無令吏急衍!」光驚鄂、默然不應。其後奏上、署衍勿論。
(『漢書』巻八、宣帝紀)
許皇后暗殺は霍光の妻が首謀者であったという。娘を皇后にするため、邪魔者である現皇后を消したかったというのだ。霍光は後からそれを知らされたというが、事実を隠蔽した上で娘を皇后にそのまま登らせたという点では共犯者そのものであろう。
一方、前年の15万騎動員については、うち将軍2名が処分されるなど、控えめに言ってあまり良い結果とならなかった。ただ、一方の当事者である烏孫は必死に戦ったのか、それとも常恵の指揮が良かったのか、とにかく結果を出したようだ。
そして、霍光夫妻の目論見通りに霍氏が皇后に立てられた。霍光自身の望みに宣帝と他の臣下たちが忖度した結果だろう。
だが、宣帝の本心がどこにあったのか。それはいずれ分かる。