公式が最大手

初、王莽篡位、長安中或自稱成帝子子輿者、莽殺之。(王)郎縁是詐稱真子輿、云「母故成帝謳者、嘗下殿卒僵、須臾有黄氣從上下、半日乃解、遂姙身就館。趙后欲害之、偽易他人子、以故得全。子輿年十二、識命者郎中李曼卿、與倶至蜀。十七、到丹陽。二十、還長安。展轉中山、來往燕・趙、以須天時」。(劉)林等愈動疑惑。乃與趙國大豪李育・張參等通謀、規共立郎。會人輭傳赤眉將度河、林等因此宣言赤眉當至、立劉子輿以觀衆心、百姓多信之。
(『後漢書』列伝第二、王昌伝)

新末に勃興した勢力の一つのトップ王昌は別名王郎*1といい、「劉子輿」なる名前を名乗っていた。




劉子輿とは王莽時代の長安で噂された「成帝の忘れ形見」の名前である。


王郎は「母は成帝の歌姫で、妊娠すると趙皇后に命を狙われたので、自分を生むと他人の子と取り換えてしまった。だから私は生き延びたのだ。それから協力者の郎中李曼卿と共に蜀、丹陽、長安、中山、趙と居を転々として時を待っていたのである」という設定を作り、趙の実力者劉林はじめ現地の人々を信じさせたのだった。



成帝の男子が趙皇后に殺されていたというのは漢王朝が公式発表した事実であるので、一人くらい生き延びていても不思議ではないと思う人間が少なくなかったのだろう。

さらに王莽が劉子輿を自称した人間を殺したというのも、逆に「劉子輿伝説」を加速させたのかもしれない。「どこかにまだ本物がいるんじゃないか」と。



そして何より、漢王朝には「皇太子が反乱起こして一家皆殺しになったが孫が一人生きていて、民間で暮らしていたけれどある日見つけ出されて皇帝になった」という厨設定な皇帝がいるので、この劉子輿(王郎)くらいの生い立ちでは特に突飛とも思われず、すんなり受け入れられたのかもしれない。

つまり「公式が最大手」ということである。




昨日の記事の「劉文伯」と比べると細部へのこだわりや整合性の追求が設定にリアリティを持たせる結果となっている感じである。




*1:言うまでもないが「王朗」は関係ない。