柱天

(翟)義自號大司馬柱天大將軍、以東平王傅蘇隆為丞相、中尉皋丹為御史大夫、移檄郡國、言(王)莽鴆殺孝平皇帝、矯攝尊號、今天子已立、共行天罰。
(『漢書』巻八十四、翟義伝)


前漢末、王莽が今まさに簒奪しようという情勢に逆らった翟義は別の皇帝を立てて反乱し、自らは「大司馬・柱天大将軍」を称したという。



(劉)伯升自發舂陵子弟、合七八千人、部署賓客、自稱柱天都部。
(『後漢書』列伝第四、齊武王縯伝)


その後、南陽郡の劉氏舂陵侯家の劉伯升すなわち光武帝の兄は、王莽の新王朝に対する反乱を企て、自らは「柱天都部」と称したという。



http://d.hatena.ne.jp/T_S/20130426/1366903365で述べたように舂陵侯家と翟義には密接な関係がある。

劉伯升のこの自称は翟義の「柱天大将軍」を受け継いだものだったりはしないだろうか。