『漢書』武帝紀を読んでみよう:その30

その29(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180105/1515078247)の続き。





征和元年春正月、還、行幸建章宮。
三月、趙王彭祖薨。
冬十一月、發三輔騎士大搜上林、閉長安城門索、十一日乃解。巫蠱起。
二年春正月、丞相(公孫)賀下獄死。
夏四月、大風發屋折木。
閏月、諸邑公主・陽石公主皆坐巫蠱死。
夏、行幸甘泉。
秋七月、按道侯韓説・使者江充等掘蠱太子宮。
壬午、太子與皇后謀斬充、以節發兵與丞相劉屈氂大戰長安、死者數萬人。
庚寅、太子亡、皇后自殺。
初置城門屯兵。更節加黄旄。
御史大夫暴勝之・司直田仁坐失縱、勝之自殺、仁要斬。
八月辛亥、太子自殺于湖。
癸亥、地震
九月、立趙敬肅王子偃為平干王。
匈奴入上谷・五原、殺略吏民。
(『漢書』巻六、武帝紀)

征和元年、2年。



丞相公孫賀、獄死。

初(公孫)賀引拜為丞相、不受印綬、頓首涕泣曰「臣本邊鄙、以鞍馬騎射為官、材誠不任宰相。」上與左右見賀悲哀、感動下泣、曰「扶起丞相。」賀不肯起、上乃起去、賀不得已拜。出、左右問其故、賀曰「主上賢明、臣不足以稱、恐負重責、從是殆矣。」
(『漢書』巻六十六、公孫賀伝)


公孫賀は人臣の最高位たる丞相になるのを恐れたという話が伝わるが、果たして自分で恐れていた通りの事となった。ただし、太初2年就任で征和2年ジエンドなので、在任期間は案外長い。


賀子敬聲、代賀為太僕、父子並居公卿位。
敬聲以皇后姊子、驕奢不奉法、征和中擅用北軍錢千九百萬、發覺、下獄。
是時詔捕陽陵朱安世不能得、上求之急、賀自請逐捕安世以贖敬聲罪。上許之。後果得安世。
安世者、京師大俠也、聞賀欲以贖子、笑曰「丞相禍及宗矣。南山之竹不足受我辭、斜谷之木不足為我械。」安世遂從獄中上書、告敬聲與陽石公主私通、及使人巫祭祠詛上、且上甘泉當馳道埋偶人、祝詛有惡言。
下有司案驗賀、窮治所犯、遂父子死獄中、家族。
(『漢書』巻六十六、公孫賀伝)


公孫賀は武帝の衛皇后の姉を妻としていたのだが、息子の汚職問題が結局は命を落とす原因となった。



そればかりではなく、数多くの後宮、政府要人も絡んだ呪詛事件(巫蠱)が発覚することとなり、それは衛皇后とその子である皇太子の身にまで及んだのである。


後上幸甘泉、疾病、(江)充見上年老、恐晏駕後為太子所誅、因是為姦、奏言上疾祟在巫蠱。於是上以充為使者治巫蠱。
充將胡巫掘地求偶人、捕蠱及夜祠、視鬼、染汚令有處、輒收捕驗治、燒鐵鉗灼、強服之。民轉相誣以巫蠱、吏輒劾以大逆亡道、坐而死者前後數萬人。
是時、上春秋高、疑左右皆為蠱祝詛、有與亡、莫敢訟其寃者。充既知上意、因言宮中有蠱氣、先治後宮希幸夫人、以次及皇后、遂掘蠱於太子宮、得桐木人。
太子懼不能自明、收充、自臨斬之。罵曰「趙虜!亂乃國王父子不足邪!乃復亂吾父子也!」太子繇是遂敗。
(『漢書』巻四十五、江充伝)

この「巫蠱」の疑獄を取り調べた江充は皇太子に遺恨があり、皇太子が即位すると自分の身が危ないという事で皇太子を陥れようとしたのだ、とされている。


そのあたりの真偽は定かではないが、ともかく進退窮まった皇太子は反乱を起こし、長安城内を血に染め、最終的には敗れて死んだのである。



なお、皇太子の反乱の時に武帝は甘泉に行っており、皇太子は長安にいた。この二人が別々の場所にいたことが、皇太子が弁明などを考えずいきなり反乱に至った主な理由であろう。




ちなみに、この皇太子の反乱で皇太子との内通を疑われ、最終的に処刑された人物に任安がいる。あの司馬遷が手紙を送った人物である。