曹操の出自について

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(常)煒曰「天之所興、其致不同、狼烏紀于三王、麟龍表于漢魏。寡君應天馭暦、能無祥乎!且用兵殺伐、哲王盛典、湯武親行誅放、而仲尼美之。魏武養於宦官、莫知所出、衆不盈旅、遂能終成大功。暴胡酷亂、蒼生屠膾、寡君奮劍而誅除之、黎元獲濟、可謂功格皇天、勳祈高祖。恭承乾命、有何不可?」
(『晋書』巻百十、慕容儁載記)


五胡十六国の時代、冉閔が石氏を倒し自立した後、燕の慕容儁に冉閔の使者常煒がやってきた。

慕容儁は部下に「冉閔クンは石氏の養子になっていた凡人のくせしてなにやらかしちゃってんの?」と訊ねさせた。上記引用はその返答である。



「魏の武帝だって宦官に養われた出自不明の人間ですが、最終的にはドエライことやってるじゃないですか」



これはあくまでも常煒なる人物の見解でしかないかもしれないが、五胡十六国時代において曹操の出自は『三国志武帝紀の「莫能審其生出本末」の通り理解されていて、夏侯氏の出とは思われていないというのは注目に値するのではなかろうか。

*1:先に書いておくがhttps://twitter.com/daradara3594/status/191120167542071296が元になっている。