『三国志』武帝紀を読んでみよう:その3

その2(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/11/29/000100)の続き。





金城邊章・韓遂殺刺史郡守以叛、衆十餘萬、天下騷動。徴太祖為典軍校尉。
會靈帝崩、太子即位、太后臨朝。大將軍何進袁紹謀誅宦官、太后不聽。進乃召董卓、欲以脅太后、卓未至而進見殺。卓到、廢帝為弘農王而立獻帝、京都大亂。卓表太祖為驍騎校尉、欲與計事。
太祖乃變易姓名、間行東歸。出關、過中牟、為亭長所疑、執詣縣、邑中或竊識之、為請得解。
卓遂殺太后及弘農王。
太祖至陳留、散家財、合義兵、將以誅卓。
冬十二月、始起兵於己吾、是歳中平六年也。
(『三国志』巻一、武帝紀)

典軍校尉はあの「西園八校尉」の一つ。袁紹らの同僚という事になる。



何進の死、袁紹らによる宦官滅殺、董卓入城まではここでは詳述しない。



ただ、『後漢書』孝献帝紀によれば少帝こと弘農王が殺されたのは、ここで魏武が挙兵したとされる中平6年ではなく、翌年となっている。


つまり魏武挙兵の段階では弘農王は生きていた事になる。



董卓から逃げ出している以上、魏武も袁紹も弘農王の処遇に関係なく、自分が生き延びるために反董卓を明確に打ち出す必要があっただろうし、そもそも皇帝を廃立した事に異を唱えているのだろうから、弘農王の生死は魏武らの挙兵には直接の関係は無い。



ただ、後から見ると弘農王廃位自体への反対はその後数十年皇帝の座に座る事になる献帝に異を唱えた事にもなるし、彼らの挙兵がお救いすべき弘農王の死を招いたのではないかという疑念も生じる。



その後の魏武にしてみれば、自分の挙兵は董卓による弘農王殺害より後であった方が外聞が良いという状況だったかもしれない。



また、この時の魏武は本人の郷里までは行っておらず、おそらくは親族の強力なバックアップなどが無い状態で挙兵しただろうと思われる。

張邈字孟卓、東平壽張人也。少以俠聞、振窮救急、傾家無愛、士多歸之。太祖・袁紹皆與邈友。辟公府、以高第拜騎都尉、遷陳留太守。
董卓之亂、太祖與邈首舉義兵。汴水之戰、邈遣衛茲將兵隨太祖。
(『三国志』巻七、呂布伝)


三国志』注では衛茲なる人物の助けがあったと書かれているが、魏武と共に最初に挙兵したという陳留太守張邈がその裏にいたようにも読める。