http://d.hatena.ne.jp/T_S/20120125/1327417497の続き。
話をいったん戻す。
ぶっちゃけるとその1の時は思いついてなかったことを今になって書こうと言うだけなんだが。
私はこのブログはいきあたりばったりライブ感を大事にしていきたいのです、とか言っておけばいいだろう。
訒艾の生年について。
その手がかりには「その1」で挙げた「少孤、太祖破荊州、徙汝南、為農民養犢。年十二、隨母至潁川」(『三国志』訒艾伝)と、彼の死後の弁護文に見える「七十老公」(同前)がある。
曹操が荊州を破って汝南に連行される頃が12歳未満であったことは言えそうである。
ということは、曹操が荊州の降伏を受け入れ劉備を長坂で破った建安13年(西暦208年)にはまだ12歳未満だったのだろう。
仮に、建安13年に11歳だとしたら彼は建安3年(198年)生まれだ。
「七十老公」は「丁度70歳」を指してはいないかもしれないが、死亡した景元五年(264年)に70歳に近い年齢であったとは言えるだろう。
仮にもしちょうど享年70歳だったとしたら生年は興平2年(195年)。
ただこれでは上記の「長坂時に12歳未満」を満たせないので、実際には建安3年(198年)かそれ以降の生まれではないだろうか。
3、4年の差であれば誤差の範囲内で修辞としては「七十老公」などと言っていても不思議ではないだろう。
彼が生まれたのはおそらくは元号が建安になってから、建安3年から5年ころまでの間と推測できる。
それより前では長坂戦の頃に12歳以上になってしまうし、あまり後だと「七十老公」という語が過剰表現になってしまう。
仮に建安4年(199年)頃の生まれとしてみよう。
長坂戦の時には10歳ということになる。
逃げる民を追撃する曹操の騎兵、その騎兵から逃げるばかりで民を守れない劉備の兵。
10歳の子供はそれをどう思ったのだろうか。
そして本題。
訒艾は「若くして父を失った(少孤)」と書かれているが、それはいつなのか。
屯田民となった12歳頃には父は既にいなかったのだろう。
とすると、彼は荊州時代に父を失った可能性が高い。
劉表治下で比較的争いの少なかったと思われる荊州で最も死人が多く出そうなイベントといえば・・・曹操の荊州侵攻だろう。
あれ?もしかして訒艾って曹操の侵攻のせいで父親を失ったんじゃ・・・?
彼が魏(曹氏)に対して冷淡であった、それどころか恨んでさえいたかもしれない最大の理由はもしかすると・・・
まあ、あくまでも「可能性」。
「妄想」と言ってもいいけれど。
なんだか既視感があるなこの話、と思ったら、姜維と父親の話に似ているんだなあ。
*1:この辺の話はほぼ全面的にhttps://twitter.com/#!/Jominian/status/162017625436729345にヒントを得たものである。ありがとう姜維の人。