太守不在の20年

太和中、遷燉煌太守。郡在西陲、以喪亂隔絶、曠無太守二十歳、大姓雄張、遂以為俗。前太守尹奉等、循故而已、無所匡革。(倉)慈到、抑挫權右、撫恤貧羸、甚得其理。
(『三国志』巻十六、倉慈伝)

魏の明帝の時、倉慈は敦煌(燉煌)太守に任命された。



三国志』倉慈伝によればそれより以前、敦煌郡には太守不在の期間が20年もあり、その間豪族の勢力が伸長したのだとされている。




だがその一方で「前太守尹奉」と、尹奉なる敦煌太守がいたこともまた記されている。





さてこれはどういうことか。





先是、河右擾亂、隔絶不通。燉煌太守馬艾卒官、府又無丞。功曹張恭素有學行、郡人推行長史事、恩信甚著、乃遣子就東詣太祖、請太守
時酒泉黄華・張掖張進各據其郡、欲與恭并勢。就至酒泉、為華所拘執、劫以白刃。就終不回、私與恭疏曰「大人率窅燉煌、忠義顯然、豈以就在困危之中而替之哉?昔樂羊食子、李通覆家、經國之臣、寧懐妻孥邪?今大軍垂至、但當促兵以掎之耳。願不以下流之愛、使就有恨於黄壤也。」
恭即遣從弟華攻酒泉沙頭・乾齊二縣。恭又連兵尋繼華後、以為首尾之援。別遣鐵騎二百、迎吏官屬、東縁酒泉北塞、徑出張掖北河、逢迎太守尹奉。
於是張進須黄華之助、華欲救進、西顧恭兵、恐急撃其後、遂詣金城太守蘇則降。就竟平安。奉得之官。
(『三国志』巻十八、閻温伝)

敦煌太守は馬艾なる者が死亡すると副官の太守丞もおらず、中央派遣の長が不在となった。


そこで現地採用張恭が長史代行として推戴されて支持された。


張恭は息子の張就を曹操の元へ派遣して正式な太守を求めたが、その頃は酒泉郡の黄華・張掖の張進が独立の動きを見せており、中央からの太守を迎えようとする張恭の動きは阻止されようとし、息子張就は黄華に捕えられた。


しかし張就は父に自分を見殺しにして忠義を果たすよう手紙を送り、父張恭は黄華・張進を攻撃し、派遣されていた敦煌太守尹奉を迎え入れたのだった。




酒泉黄華・張掖張進等各執太守以叛。金城太守蘇則討進、斬之。華降。
(『三国志』巻二、文帝紀、延康元年五月)

この事件は曹操死亡直後の事であろう。


おそらく、張恭が太守デリを頼もうとしたときにはまだ曹操がいたが、河西ですったもんだしているうちに曹操が死んだのだと思われる。




ということは尹奉は延康元年頃には敦煌太守になっている。




「20年の空位期間」は尹奉よりも前であろう。






そこで「燉煌太守馬艾卒官、府又無丞。功曹張恭素有學行、郡人推行長史事、恩信甚著、乃遣子就東詣太祖、請太守」に注目してみると、一つ気が付くことがある。



「郡人推行長史事、恩信甚著」ということは、ある程度の期間はそのまま代行を続け、事実上太守同然に振る舞ったのではないか、ということである。




それがもしかすると「曠無太守二十歳」なのではなかろうか。



仮に延康元年から20年近く遡ると建安五年前後、これは官渡の戦いの頃である。



更に5年前後は誤差として考えると、建安十一年頃に武威太守が当時の刺史(雍州刺史)を殺害するという事件が起こっているということが目につく。



刺史が太守に殺害されるくらいだから、これ以降の河西が事実上朝廷のコントロールを離れていたとしても不思議ではない。


まして、敦煌郡は刺史を殺した武威を経由しないと中央へ出ることも困難なのである。




この建安十一年の刺史殺害事件に前後して敦煌太守馬艾が死去して太守不在となり、現地人張恭が代行していたということなのだろではなかろうか。



もちろん、それ以前から不在であったが既に中央や刺史のコントロールを離れており、その対応策として雍州刺史が置かれた、ということもあり得る。





ではなぜ20年近く(実際は15年前後?)も太守不在のままにしていたのか。





馬超による涼州刺史殺害、遺臣による馬超撃退、張魯軍閥解体による馬超の南下といった、涼州方面の混乱が終わるのは建安二十年頃。


それまでは韓遂・宋建といった中央に反抗的な勢力が涼州方面に割拠*1しており、太守の派遣など現実味が薄かったのだろう。



太守派遣がやっと出来そうになってきたのが建安末期であった、ということではなかろうか。




*1:おそらく涼州刺史は彼らの存在を認めてある程度好きにさせていたのだろう。そうしなければ一時的な安定もありえなかったのではないかと思われる。