復讐鬼の生涯ファイナル

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ついに訒艾最後にして最大の戦いが始まる。

四年秋、詔諸軍征蜀、大將軍司馬文王皆指授節度、使艾與維相綴連。雍州刺史諸葛緒要維、令不得歸。艾遣天水太守王頎等直攻維營、隴西太守牽弘等邀其前、金城太守楊欣等詣甘松。維聞鍾會諸軍已入漢中、引退還。
(『三国志』巻二十八、訒艾伝)


言うまでも無くいわゆる蜀への侵攻である。

この時の彼は都督隴右諸軍事であるから、侵攻軍の中では仮節都督関中諸軍事に任じられた鍾会に次ぐ存在だろう。




そもそも蜀を征服することについては、当時の権力者司馬昭にとって重大な意味を持っている。


つまり、「曹氏が結局一度も征服出来なかった蜀を司馬氏の指揮のもとで征服した!」という実績を作ることである。
この実績があれば、軍事面での功績と言えそうなのが蜀の攻撃を防いできたことと内乱鎮圧くらいの司馬氏が曹氏に代わって天下の主となることができるということだ。


この重大な任務に「曹操ホントはむかつく派閥」2代目の鍾会と、ご存じ我らが訒艾が中心となって働いているのは偶然ではないだろう。

こういう、曹氏から司馬氏への天命の推移を内心喜ぶくらいの人材でなかったら、この肝心要な大プロジェクトをサボタージュされかねない。
曹氏の天下のままを望むなら、司馬昭が総大将となっている征蜀を成功させるわけにはいかないからだ。

冬十月、艾自陰平道行無人之地七百餘里、鑿山通道、造作橋閣。山高谷深、至為艱險、又糧運將匱、頻於危殆。艾以氊自裹、推轉而下。將士皆攀木縁崖、魚貫而進。先登至江由、蜀守將馬邈降。蜀衞將軍諸葛瞻自涪還緜竹、列陳待艾。艾遣子惠唐亭侯忠等出其右、司馬師纂等出其左。忠・纂戰不利、並退還、曰「賊未可撃。」艾怒曰「存亡之分、在此一舉、何不可之有?」乃叱忠・纂等、將斬之。忠・纂馳還更戰、大破之、斬瞻及尚書張遵等首、進軍到雒。劉禪遣使奉皇帝璽綬、為箋詣艾請降。
(『三国志』巻二十八、訒艾伝)

そして訒艾はかの有名な行軍を始める。
60歳は確実に過ぎていることを考えればかなりの蛮勇であると言えるだろう。

これなどはまさに「この戦いに勝てば魏も蜀もどちらも滅ぼせるんだ」という私怨が精神を支えなければ実行する気にもならないような行為に違いない。


艾深自矜伐、謂蜀士大夫曰「諸君頼遭某、故得有今日耳。若遇呉漢之徒、已殄滅矣。」
(『三国志』巻二十八、訒艾伝)


そしてついに劉禅の降伏を受け入れた訒艾

彼は調子に乗ってこんなことを言ったとされている。

「き、キミたちに勝ったのがぼ、ボクだったから今日も生きていられたんだな。も、もし呉漢みたいな人だった、す、既に皆殺しだったんだな」

冬十一月戊寅、呉漢・臧宮與公孫述戰於成都、大破之。述被創、夜死。辛巳、呉漢屠成都、夷述宗族及延岑等。
(『後漢書』紀第一下、光武帝紀下、建武十二年)

呉漢とはさかのぼること200年以上前に公孫述のいた成都を落とし城内で殺戮を働いたと記録される人物である。


蜀の人間の気持ちを逆なですることこの上ない発言だが、口下手な訒艾がこんなことを言ってしまうというのは、つまるところ「呉漢の時みたいに成都壊滅させるってのもいいな・・・!」と訒艾が考えていたからということだろう。
つい口に出てしまった言葉というのは元々考えていたことであるものだ。


やらなくても良さそうな成都皆殺しをやりたくなる。それくらい彼の蜀=劉備への恨みは深かったということだ。
まさに復讐鬼。




劉備の国である蜀を滅ぼし、しかもそれによって曹操の国である魏の滅亡も確定したのだから、訒艾にとってはまさに人生の宿願が一気に叶ったヘブン状態

ちょっと調子に乗っちゃって「きょ、姜維もぼ、ボクと同じ時代に生まれたのが、ふ、不幸だったんだな」みたいなことを言っちゃうのくらいは大目に見てやってほしい。


それに、彼は鍾会にあっさり陥れられて殺されちゃうわけだが、宿願はもう果たしたわけだから、悔しくはあるだろうが我が生涯に一片の悔いなし、の気持ちであったことだろう。
安らかに眠れ訒艾