『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その42

その41(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/06/18/000100)の続き。





二十四年春二月壬子晦、日有食之。
夏五月、劉備取漢中。
秋七月庚子、劉備自稱漢中王。
八月、漢水溢。
冬十一月、孫權取荊州
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

建安24年。



劉備は漢中王となり、孫権荊州へ本格進出。



いわゆる魏・呉・蜀が大体定まったと言えるだろう。



劉備の漢中王はもちろん献帝が封建したわけではなく、「自称」と書かれている。


曹操の魏公・魏王も「自立」「自進号」と表記されており、この『後漢書孝献帝紀においては曹操劉備も王号は実質的には皇帝の意思によらない自称だ、と示している事になるだろう。



二十四年春正月、(曹)仁屠宛、斬(侯)音。
夏侯淵劉備戰於陽平、為備所殺。
三月、王自長安出斜谷、軍遮要以臨漢中、遂至陽平。備因險拒守。
夏五月、引軍還長安
秋七月、以夫人卞氏為王后。
于禁曹仁撃關羽。
八月、漢水溢、灌禁軍、軍沒、羽獲禁、遂圍仁。使徐晃救之。
九月、相國鍾繇坐西曹掾魏諷反免。
冬十月、軍還洛陽。孫權遣使上書、以討關羽自效。王自洛陽南征羽、未至、晃攻羽、破之、羽走、仁圍解。王軍摩陂。
(『三国志』巻一、武帝紀)

この年、漢中では劉備曹操の腹心夏侯淵を殺して漢中を奪い、曹操は反撃に出たが劉備の守りの前に退いた。あるいは、荊州の方が怪しいと感じたのかもしれない。



荊州では曹操の軍と孫権劉備の将関羽を挟撃するような形となり、孫権による荊州占領が上手く行く。



(張)魯降、既説太祖拔漢中民數萬戸以實長安及三輔。
其後與曹洪破吳蘭於下辯、又與夏侯淵討宋建、別攻臨洮・狄道、平之。
是時、太祖徙民以充河北、隴西・天水・南安民相恐動、擾擾不安、既假三郡人為將吏者休課、使治屋宅、作水碓、民心遂安。
太祖將拔漢中守、恐劉備北取武都氐以逼關中、問既。既曰「可勸使北出就穀以避賊、前至者厚其寵賞、則先者知利、後必慕之。」太祖從其策、乃自到漢中引出諸軍、令既之武都、徙氐五萬餘落出居扶風・天水界。
(『三国志』巻十五、張既伝)


なお、この時の漢中の人間は多くが移住させられたらしいので、劉備が奪った時の漢中は張魯が降伏した時とは様相が全然違っていたと思われる。