復讐鬼の生涯その4

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20120126/1327506694の続き。


司馬懿により抜擢された訒艾


彼は河渠を通すことを勧めた『済河論』を著したり、匈奴の分割を提言したり、まあ色々とお役立ちだった。




「あれ?曹氏に恨みを持ってる割には魏のためになってるじゃないか?」などと言うなかれ。

「宣王善之、事皆施行。」「大將軍司馬景王新輔政、多納用焉。」(『三国志』巻二十八、訒艾伝)などとあるように、彼の功績は司馬氏に対してのものなのである。


当時は司馬氏が権力を握っていたから当然と言うこともできるが、彼が司馬氏シンパであり曹氏に対しては含むところがあったのではないかということは以下の点からもうかがえるだろう。

高貴郷公即尊位、進封方城亭侯。毌丘儉作亂、遣健歩齎書、欲疑惑大衆、艾斬之、兼道進軍、先趣樂嘉城、作浮橋。司馬景王至、遂據之。
(『三国志』巻二十八、訒艾伝)

司馬師を除こうとして反乱を起こした毌丘儉がもたらした文書に対し、訒艾は全く動揺することがなかった。
魏王朝の皇室曹氏への忠誠心厚い者なら、明らかに曹氏をしのぎつつあった司馬氏に従っていていいものか悩んでも不思議ではない。

訒艾の躊躇の無さに、司馬氏への忠誠の篤さ、言い換えると曹氏への冷淡さを見ることも出来るのではないだろうか。



訒艾最大の功績にして命取りであった蜀攻めにしても、蜀を征服して利を得るのは魏ではなく、司馬氏である。



訒艾は司馬氏のために働いていた。


彼が抜擢された時には既に魏王朝が主体性を欠いていたのだから当然、と言うこともできるかもしれないが、前回までに見てきたように彼の出自を考えれば、むしろ「し、司馬氏のために戦えばそれだけ魏の滅亡が早まる!メシウマ!」と喜んで働いていた可能性の方が高いくらいだろう。


そして実際の彼の蜀攻めでの働きぶりは、単なる司馬氏への忠勤だけでは説明がつかないくらいのものだったように思う。
でもそれについては次回につづく。