建安8年の命令

己酉、令曰「司馬法『將軍死綏』、故趙括之母、乞不坐括。是古之將者、軍破于外、而家受罪于内也。自命將征行、但賞功而不罰罪、非國典也。其令諸將出征、敗軍者抵罪、失利者免官爵。」
(『三国志』巻一、武帝紀、建安八年)

曹操は建安8年(袁紹が死んだ翌年)、「敗軍」となった者は罪に当て、「失利」となった者は官爵を取り上げる、という命令を出した。


「敗軍」「失利」が具体的にどういう状態を表す語なのか明確ではないが、軍の敗北を示している事は間違いなかろう。



「功績に対して恩賞を貰うだけで失敗を罰せられないのはおかしいやろ」という理由はごもっともである。



公至赤壁、與(劉)備戰、不利。於是大疫、吏士多死者、乃引軍還。
(『三国志武帝紀、建安十三年)


その後、かの赤壁の戦いについて、『三国志武帝紀は「不利」とは書くが、明らかな多数をもって劉備孫権に破れて荊州も半分失う事になった事を「敗れた」と表現はしていない。



もし戦闘で敗れたとなると、建安8年の命令に照らすと曹操やその重臣たちは軒並み罷免されるばかりか重罪人となってしまうのではないか。



この事を「それが適用されていないのだから曹操たちは負けていなかったんだ」と考えるか、「自分で自分で出した命令に殺されるわけにはいかないから記録を改竄した」と考えるか、それは読む人の自由である。