許慈と胡潜

許慈字仁篤、南陽人也。師事劉熙、善鄭氏學、治易・尚書・三禮・毛詩・論語。建安中、與許靖等俱自交州入蜀。
時又有魏郡胡潛、字公興、不知其所以在益土。潛雖學不沾洽、然卓犖彊識、祖宗制度之儀、喪紀五服之數、皆指掌畫地、舉手可采。
先主定蜀、承喪亂歴紀、學業衰廢、乃鳩合典籍、沙汰衆學、慈・潛並為學士、與孟光・來敏等典掌舊文。値庶事草創、動多疑議、慈・潛更相克伐、謗讟忿爭、形於聲色。書籍有無、不相通借、時尋楚撻、以相震攇。其矜己妒彼、乃至於此。
先主愍其若斯、羣僚大會、使倡家假為二子之容。傚其訟之状、酒酣樂作、以為嬉戲、初以辭義相難、終以刀杖相屈、用感切之。
潛先沒、慈後主世稍遷至大長秋、卒。
【注】
孫盛曰、蜀少人士、故慈・潛等並見載述。
(『三国志』巻四十二、許慈伝)

後漢末に許慈という人がいた。
知る人ぞ知る劉熙に師事した学者で、交州へ疎開していたようだがどこかの段階で蜀へ行った。


一方、同じく当時の蜀に入った学者に魏郡の胡潜という人もいた。
彼は宗廟や喪礼などに詳しかったという。


この二人はとても相性が悪く、劉備が蜀を平定した後に各種礼制やら学問やらを復興しようとした時、それはもう酷い論争を起こしたと言う。



で、あまりの喧嘩っぷりに若干引いた劉備は、「オメーらのやってることはこういうことなんだぞ自重しる」という意味を込めて、宴会の余興として許慈・胡潜に扮装した二人が言い争いから武器を使う争いに発展する寸劇を見せてやったという。

なお、それを見た二人が仲直りしたとか愧じたとかいうことは一切書かれていない。


この二人については孫盛先生もドン引き。コメントが「蜀は人材が少ないからこんな連中のことが列伝に載っているのである」と皮肉たっぷりである。



学問上の争いっていうのは本人たちは真面目かつ生活やプライドや下手すると本人にとっては全存在かかってるだけに白熱すると簡単には収まらないものなのかもしれない。