劉表の息子

及(劉)表病甚、(劉)蒅歸省疾、素慈孝、(張)允等恐其見表而父子相感、更有託後之意、乃謂蒅曰 「將軍命君撫臨江夏、其任至重。今釋衆擅來、必見譴怒。傷親之歡、重筯其疾、非孝敬之道也。」遂遏于戸外、使不得見。蒅流涕而去、人衆聞而傷焉。遂以(劉)蒴為嗣。
蒴以侯印授蒅。蒅怒、投之地、將因奔喪作難。
曹操軍至新野、蒅走江南。
(『後漢書』列伝第六十四下、劉表伝)

曹操侵攻前夜、劉表の臨終に際して長子の劉蒅は父を看病して孝行息子アピールに励んだが、そのために少子の劉蒴を推す実力者張允らは劉表が後継者を劉蒅にしたいなどと言い出すのではないかと恐れ、劉蒅を締めだしてしまった。




そして結局劉蒴が後継ということになると、劉蒴は劉蒅に列侯の印綬を渡したのだった。




これはつまり劉表の持っていた列侯の地位と領土は長子の劉蒅が継ぐ、ということである。




劉蒴が継いだのはあくまでも劉表の勢力の指揮権や官位であって、基本嫡子が相続する爵位は長子の劉蒅が相続する、という理屈なのだろう。


劉蒅に対し妥協しようという劉蒴サイドのアピールだと言えよう。





だが劉蒅サイドの求めているのは爵位の相続ではなく、勢力の継承であることは明らかであり、怒った劉蒅は列侯の印綬を投げ捨て、父の喪に駆けつけるということを口実に乱を起こそうとしたのだという。



しかしながら曹操の侵攻が明らかとなったため、彼はそれを実行せずに江南へ脱出を図ったということである。






劉蒅はどうやら袁譚よりも曹彰よりもずっとアグレッシブな二代目のようだ。



彼の企みが曹操侵攻で中断しなかったらいったいどうなっていたのだろうか?