『三国志』武帝紀を読んでみよう:その25

その24(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/12/29/000100)の続き。





八年春三月、攻其郭、乃出戰、撃、大破之。(袁)譚・尚夜遁。
夏四月、進軍鄴。
五月還許、留賈信屯黎陽。
己酉、令曰「司馬法『將軍死綏』、故趙括之母、乞不坐括。是古之將者、軍破于外、而家受罪于内也。自命將征行、但賞功而不罰罪、非國典也。其令諸將出征、敗軍者抵罪、失利者免官爵。」
秋七月、令曰「喪亂已來十有五年、後生者不見仁義禮讓之風、吾甚傷之。其令郡國各脩文學、縣満五百戸置校官、選其郷之俊造而教學之、庶幾先王之道不廢、而有以益于天下。」
八月、公征劉表、軍西平。
公之去鄴而南也、譚・尚爭冀州、譚為尚所敗、走保平原。尚攻之急、譚遣辛毗乞降請救。諸將皆疑、荀攸勸公許之、公乃引軍還。
冬十月、到黎陽、為子整與譚結婚。尚聞公北、乃釋平原還鄴。東平呂曠・呂翔叛尚、屯陽平、率其衆降、封為列侯。
(『三国志』巻一、武帝紀)

袁紹の後継者という事になった袁尚袁紹の長子袁譚はついに戦争を起こし始め、危なくなった袁譚は魏武に助けを要請するという手段に出た。袁譚は自分の娘と魏武の子の妻とする。姻戚になるという事であると共に、人質でもあるのだろう。




魏武は袁氏との争いのさなかに急に劉表の方へ行く。

從破袁紹、紹死、又從討譚・尚于黎陽、連戰數克。諸將欲乗勝遂攻之、(郭)嘉曰「袁紹愛此二子、莫適立也。有郭圖・逢紀為之謀臣、必交鬭其間、還相離也。急之則相持、緩之而後爭心生。不如南向荊州若征劉表者、以待其變。變成而後撃之、可一舉定也。」太祖曰「善。」乃南征。軍至西平、譚・尚果爭冀州。譚為尚軍所敗、走保平原、遣辛毗乞降。
(『三国志』巻十四、郭嘉伝)


これは謀臣郭嘉の策であったという。案の定争いだした袁氏兄弟。まあ、この辺は袁氏全体の構造的な問題でもあるのだろうし、ある意味では自業自得。




魏武はこの時期に「敗軍」や「失利」はきちんと罰するぞ、という命令を出した。


これは裏を返すとそれまでは敗戦しても敗北の責任が問われにくい状態であったという事だ。私兵の主や半独立状態の太守などは罪に問いにくい(強く糾弾したら離反される)といった事情もあったのだろう。


後の時代、かの諸葛亮は自分が率いた軍が敗北すると、自ら責任を取って官位を降格させた。それと根は同じで、この本文でも触れられているように敗北した将は責任を取らなければならないのである。


兵法家でもある魏武らしい命令と言えよう。