三つ子の魂百まで

遷潁川太守。郡大姓原・褚宗族膻恣、賓客犯為盜賊、前二千石莫能禽制。廣漢既至數月、誅原・褚首惡、郡中震栗。
先是、潁川豪桀大姓相與為婚姻、吏俗朋黨。廣漢患之、窅使其中可用者受記、出有案問、既得罪名、行法罰之、廣漢故漏泄其語、令相怨咎。又教吏為缿筩、及得投書、削其主名、而託以為豪桀大姓子弟所言。
其後彊宗大族家家結為仇讎、姦黨散落、風俗大改。吏民相告訐、廣漢得以為耳目、盜賊以故不發、發又輒得。壹切治理、威名流聞、及匈奴降者言匈奴中皆聞廣漢。
(『漢書』巻七十六、趙広漢伝)

治甚有名、徙潁川。
潁川多豪彊、難治,國家常為選良二千石。先是、趙廣漢為太守、患其俗多朋黨、故構會吏民、令相告訐、一切以為聰明、潁川由是以為俗、民多怨讐。
延壽欲更改之、教以禮讓、恐百姓不從、乃歴召郡中長老為郷里所信向者數十人、設酒具食、親與相對、接以禮意、人人問以謠俗、民所疾苦、為陳和睦親愛銷除怨咎之路。長老皆以為便、可施行、因與議定嫁娶喪祭儀品、略依古禮、不得過法。
延壽於是令文學校官諸生皮弁執俎豆、為吏民行喪嫁娶禮。百姓遵用其教、賣偶車馬下里偽物者、棄之巿道。數年、徙為東郡太守、黄霸代延壽居潁川、霸因其迹而大治。
(『漢書』巻七十六、韓延寿伝)


前漢半ば、宣帝の頃の潁川郡。
ここは豪族・兼併家の類が多く、しかも彼らは姻戚関係を結び連合して裏では武装集団と結託しているなど、統治しにくい土地柄であったそうだ。

そんな潁川郡の太守になった名太守趙広漢は、その地の豪族をコントロールするため、特に力を持っていたと思われる者たちを滅ぼし、同時に「目安箱」設置などの密告奨励、更には密告内容のリークによる相互不信などの計略を駆使して潁川郡の豪族の連携を潰した。


ただし、その副作用として潁川郡の習俗として郡内に不信感や怨恨が蔓延したという。
まあ考えてみれば当然である。



そこでその後に太守となった韓延寿は、長老抱き込みや学問奨励などの教化を重視したという。



このような当時の潁川郡の特質は、300年近くも先の後漢末にも何らかの影響を及ぼしたのだろうか。