『後漢書』孝霊帝紀を読んでみよう:その20

その19(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/04/11/000100)の続き。





中平元年春二月、鉅鹿人張角自稱「黄天」、其部帥有三十六方、皆著黄巾、同日反叛。安平・甘陵人各執其王以應之。
三月戊申、以河南尹何進為大將軍、將兵屯都亭。置八關都尉官。
壬子、大赦天下黨人、還諸徙者、唯張角不赦。詔公卿出馬・弩、舉列將子孫及吏民有明戰陣之略者、詣公車。
遣北中郎將盧植張角、左中郎將皇甫嵩・右中郎將朱儁討潁川黄巾。
庚子、南陽黄巾張曼成攻殺郡守褚貢。
夏四月、太尉楊賜免、太僕弘農鄧盛為太尉。司空張濟罷、大司農張溫為司空。
朱儁為黄巾波才所敗。
侍中向栩・張鈞坐言宦者、下獄死。
汝南黄巾敗太守趙謙於邵陵。
廣陽黄巾殺幽州刺史郭勳及太守劉衛。
五月、皇甫嵩朱儁復與波才等戰於長社、大破之。
六月、南陽太守秦頡撃張曼成、斬之。
交阯屯兵執刺史及合浦太守來達、自稱「柱天將軍」、遣交阯刺史賈琮討平之。
皇甫嵩朱儁大破汝南黄巾於西華。詔嵩討東郡、朱儁南陽
盧植破黄巾、圍張角於廣宗。宦官誣奏植、抵罪。遣中郎將董卓張角、不尅。
洛陽女子生兒、両頭共身。
(『後漢書』紀第八、孝霊帝紀)

中平元年(前半)。但し、今回の時点ではまだ改元していないので光和7年だったのではないだろうか。



黄巾起こる。


初、鉅鹿張角自稱「大賢良師」、奉事黄老道、畜養弟子、跪拜首過、符水呪說以療病、病者頗愈、百姓信向之。角因遣弟子八人使於四方、以善道教化天下、轉相誑惑。十餘年閒、衆徒數十萬、連結郡國、自青・徐・幽・冀・荊・楊・兗・豫八州之人、莫不畢應。遂置三十六方。方猶將軍號也。大方萬餘人、小方六七千、各立渠帥。訛言「蒼天已死、黄天當立、歳在甲子、天下大吉」。以白土書京城寺門及州郡官府、皆作「甲子」字。
中平元年、大方馬元義等先收荊・楊數萬人、期會發於鄴。元義數往來京師、以中常侍封諝・徐奉等為内應、約以三月五日内外倶起。
未及作亂、而張角弟子濟南唐周上書告之、於是車裂元義於洛陽。
靈帝以周章下三公・司隸、使鉤盾令周斌將三府掾屬、案驗宮省直衛及百姓有事角道者、誅殺千餘人、推考冀州、逐捕角等。
角等知事已露、晨夜馳勑諸方、一時倶起。皆著黄巾為摽幟、時人謂之「黄巾」、亦名為「蛾賊」。殺人以祠天。角稱「天公將軍」、角弟寶稱「地公將軍」、寶弟梁稱「人公將軍」、所在燔燒官府、劫略聚邑、州郡失據、長吏多逃亡。旬日之閒、天下嚮應、京師震動。
(『後漢書』列伝第六十一、皇甫嵩伝)

張角尊師は周到に挙兵のための組織を作っていたが、直前に発覚したために挙兵を前倒ししたそうだ。



中常侍すなわち皇帝のそばの宦官の一部まで内通していたというが、上記にある各州の民や豪族も同様に多数が在家信者となっていたのではなかろうか。



何進字遂高、南陽宛人也。
異母女弟選入掖庭為貴人、有寵於靈帝、拜進郎中、再遷虎賁中郎將、出為潁川太守。
光和三年、貴人立為皇后、徴進入、拜侍中・將作大匠・河南尹。
中平元年、黄巾賊張角等起、以進為大將軍、率左右羽林五營士屯都亭、修理器械、以鎮京師。
張角別黨馬元義謀起洛陽、進發其姦、以功封慎侯。
(『後漢書』列伝第五十九、何進伝)


何進はここで初めて大将軍となって皇帝の親衛隊を率いる事となり、次いで列侯となった。霊帝からすれば、皇后の兄といった立場でないと信用できなかったのかもしれない。




交阯(交州)でも刺史の汚職と誅求が原因で挙兵。兵士が反乱したという事らしいので相当である。あーもうめちゃくちゃだよ。




張角を包囲した盧植が更迭されてみたり、もうなんだか行くところまで行ってしまったという感じ。そして、段々と『三国志』感が強まってきた。