『三国志』文帝紀を読んでみよう:その5

その4(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/01/28/000100)の続き。





二年春正月、郊祀天地・明堂。
甲戌、校獵至原陵、遣使者以太牢祠漢世祖。
乙亥、朝日于東郊。
初令郡國口満十萬者、歲察孝廉一人。其有秀異、無拘戸口。
辛巳、分三公戸邑、封子弟各一人為列侯。
壬午、復潁川郡一年田租。改許縣為許昌縣。以魏郡東部為陽平郡、西部為廣平郡。
詔曰「昔仲尼資大聖之才、懷帝王之器、當衰周之末、無受命之運、在魯・衛之朝、教化乎洙・泗之上、悽悽焉、遑遑焉、欲屈己以存道、貶身以救世。于時王公終莫能用之、乃退考五代之禮、脩素王之事、因魯史而制春秋、就太師而正雅頌、俾千載之後、莫不宗其文以述作、仰其聖以成謀、咨!可謂命世之大聖、億載之師表者也。遭天下大亂、百祀墮壞、舊居之廟、毀而不脩、褒成之後、絶而莫繼、闕里不聞講頌之聲、四時不覩蒸嘗之位、斯豈所謂崇禮報功、盛徳百世必祀者哉!其以議郎孔羨為宗聖侯、邑百戸、奉孔子祀。」令魯郡脩起舊廟、置百戸吏卒以守衛之、又於其外廣為室屋以居學者。
三月、加遼東太守公孫恭為車騎將軍。
初復五銖錢。
夏四月、以車騎將軍曹仁為大將軍。
五月、鄭甘復叛、遣曹仁討斬之。
六月庚子、初祀五嶽四瀆、咸秩羣祀。
丁卯、夫人甄氏卒。
戊辰晦、日有食之。有司奏免太尉、詔曰「災異之作、以譴元首、而歸過股肱、豈禹・湯罪己之義乎?其令百官各虔厥職、後有天地之眚、勿復劾三公。」
秋八月、孫權遣使奉章、并遣于禁等還。
丁巳、使太常邢貞持節拝權為大將軍、封呉王、加九錫。
冬十月、授楊彪光祿大夫。
以穀貴、罷五銖錢。
己卯、以大將軍曹仁為大司馬。
十二月、行東巡。
是歳築陵雲臺。
(『三国志』巻二、文帝紀

孔子こと孔丘先生は帝王となる資格のある聖人だったけど「素王」に終わったという世界観の元、その子孫を列侯に封建。



曹仁は大将軍から大司馬へ。たぶん大司馬の方が格上という事になっているのだろう。




後漢では割と頻繁に日食等で三公が罷免されていたようなので、この度の曹丕の決定によって天災が直接の罷免理由にならなくなった、という事らしい。



そして孫権は呉王に。


(建安)二十五年、魏文帝稱尊號、改年曰黄初。或傳聞漢帝見害、先主乃發喪制服、追諡曰孝愍皇帝。・・・(中略)・・・即皇帝位於成都武擔之南。為文曰「惟建安二十六年四月丙午、皇帝備敢用玄牡、昭告皇天上帝后土神祇。漢有天下、歴數無疆。曩者王莽篡盜、光武皇帝震怒致誅、社稷復存。今曹操阻兵安忍、戮殺主后、滔天泯夏、罔顧天顯。操子丕、載其凶逆、竊居神器。羣臣將士以為社稷墮廢、備宜脩之、嗣武二祖、龔行天罰。備惟否徳、懼忝帝位。詢于庶民、外及蠻夷君長、僉曰『天命不可以不答、祖業不可以久替、四海不可以無主』。率土式望、在備一人。備畏天明命、又懼漢阼將湮于地、謹擇元日、與百寮登壇、受皇帝璽綬。脩燔瘞、告類于天神、惟神饗祚于漢家、永綏四海!」
(『三国志』巻三十二、先主伝)

なお、劉備が「殺された皇帝(献帝)」を継ぐ漢の皇帝を名乗ったのはこの年の事である。



初、(蘇)則及臨菑侯植聞魏氏代漢、皆發服悲哭、文帝聞植如此、而不聞則也。
(『三国志』巻十六、蘇則伝)


なお、魏領内でも蘇則や曹植曹丕が皇帝になった時に漢の皇帝が死んだと思ったというので、献帝死去という報は劉備政権が勝手に捏造した偽情報と断言するのは早計だろう。


既に皇后や皇子を殺してきた政権のやる事なので、今度は遂に来たか、みたいに思われるのも分からないではないのではないか。