『漢書』韋玄成伝その6

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後歳餘、玄成薨、匡衡為丞相。上寢疾、夢祖宗譴罷郡國廟、上少弟楚孝王亦夢焉。上詔問衡、議欲復之、衡深言不可。
上疾久不平、衡惶恐、禱高祖・孝文・孝武廟曰「嗣曾孫皇帝恭承洪業、夙夜不敢康寧、思育休烈、以章祖宗之盛功。故動作接神、必因古聖之經。往者有司以為前因所幸而立廟、將以繫海内之心、非為尊祖嚴親也。今頼宗廟之靈、六合之内莫不附親、廟宜一居京師、天子親奉、郡國廟可止毋修。皇帝祗肅舊禮、尊重神明、即告于祖宗而不敢失。今皇帝有疾不豫、乃夢祖宗見戒以廟、楚王夢亦有其序。皇帝悼懼、即詔臣衡復修立。謹案上世帝王承祖禰之大禮、皆不敢不自親。郡國吏卑賤、不可使獨承。又祭祀之義以民為本、間者歳數不登、百姓困乏、郡國廟無以修立。禮、凶年則歳事不舉、以祖禰之意為不樂、是以不敢復。如誠非禮義之中、違祖宗之心、咎盡在臣衡、當受其殃、大被其疾、隊在溝瀆之中。皇帝至孝肅慎、宜蒙祐福。唯高皇帝・孝文皇帝・孝武皇帝省察、右饗皇帝之孝、開賜皇帝眉壽亡疆、令所疾日瘳、平復反常、永保宗廟、天下幸甚!」

一年余り後、韋玄成は死亡し、匡衡が代わって丞相となった。そんな折、元帝が重い病となり、太祖、太宗らが郡国廟廃止を責めたことを夢見た。また元帝の弟の楚孝王も同じような夢を見た。そこで元帝は郡国廟復活を建議しようとしたが、匡衡が強く反対した。
元帝の病は癒えず、匡衡は恐れおののいて高祖、文帝、武帝廟へ祈祷した。
「貴方がたの子孫である皇帝陛下が日夜先祖の功績を顕彰しようと励んでおり、その所作は常に古の礼に従っております。かつて官僚たちは貴方がたが行幸した地に廟を作りましたが、これは天下に威信を示し心を繋ぎとめるためで先祖を尊敬する気持ちからではありませんでした。今や天下の内に従わぬ者はなく、廟は都だけに置いて天子自らが祭祀を行い、郡国の廟は廃止するべきなのです。皇帝陛下は古礼に従い、先祖を敬っており、この事をすぐに祖宗の廟に告げており礼は失しておりません。今、皇帝陛下は病床にあり、貴方がたが枕元に立つ夢を見ており、楚王も同様の事を夢に見たとのことです。皇帝陛下は恐れおののいて私めに郡国廟の復活を命じました。しかし私が思うに、古代の帝王は祖先の祭礼を行う際は自ら執行しなかったことはありません。郡国の吏は卑賤の者であり、彼らだけに礼を行わせるなどもってのほかです。それに祭祀の本意は民のためであり、ここのところ凶作で民は困窮しており、郡国廟の祭祀など行えません。礼によれば凶作の年は先祖の御霊が楽しまないとの理由から毎年の祭事も行わないと言いますので、そこで郡国廟を復活しなかったのです。もしこれに礼儀に添わず祖宗の御心に従わないところがあったならば、その罪はすべて私にあり、私がその罰を受けるべきです。皇帝陛下は孝行者であり、福を受けるべきなのです。高祖・文帝・武帝のお三方にはそのことをお考えになり、皇帝陛下の病を癒して平常に戻し、長く宗廟を保つようにしていただけますようお願いいたします。そうなれば天下にとって幸いであります」


元帝は夢で高祖らご先祖が出てきて、郡国廟廃止について叱責されたという。そしてそれ以来病臥し、なかなか治らない。

弱気になった元帝は前言を翻して郡国廟復活を指示したが、時の丞相匡衡もまた儒者であり、韋玄成の廟制改革を支持するのだった。

そして匡衡は病が癒えない元帝のため、そして廟制改革を戻されないため、「陛下は悪くないよ!僕が悪いんだよ!」という祈祷の文を高祖らの廟に奉納したのである。


我々の目から見れば非科学的な茶番にしか思えないが、彼らは100%ではないにしてもある程度は本当に先祖がバチ当ててるんじゃないかという畏れを抱いていたのだろう。
だからこそ、王莽が即位する際にも「高祖の神霊が俺に皇帝になれと囁いている」と言わなければならなかったのかもしれない。