『漢書』韋玄成伝その13

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20110622/1308669358の続き。

禮記王制及春秋穀梁傳、天子七廟、諸侯五、大夫三、士二。天子七日而殯、七月而葬。諸侯五日而殯、五月而葬。此喪事尊卑之序也、與廟數相應。其文曰『天子三昭三穆、與太祖之廟而七。諸侯二昭二穆、與太祖之廟而五。』故徳厚者流光、紱薄者流卑。春秋左氏傳曰『名位不同、禮亦異數。』自上以下、降殺以兩、禮也。七者、其正法數、可常數者也。宗不在此數中。宗、變也、苟有功徳則宗之、不可預為設數。故於殷、太甲為太宗、大戊曰中宗、武丁曰高宗。周公為毋逸之戒、舉殷三宗以勸成王。繇是言之、宗無數也、然則所以勸帝者之功徳博矣。以七廟言之、孝武皇帝未宜毀。以所宗言之、則不可謂無功徳。禮記祀典曰『夫聖王之制祀也、功施於民則祀之、以勞定國則祀之、能救大災則祀之。』竊觀孝武皇帝、功徳皆兼而有焉。凡在於異姓、猶將特祀之、況于先祖?或説天子五廟無見文、又説中宗・高宗者宗其道而毀其廟、名與實異、非尊徳貴功之意也。詩云『蔽芾甘棠、勿鬋勿伐、邵伯所茇。』 思其人猶愛其樹、況宗其道而毀其廟乎?迭毀之禮自有常法、無殊功異徳、固以親疏相推及。至祖宗之序、多少之數、經傳無明文、至尊至重、難以疑文虚説定也。孝宣皇舉公卿之議、用衆儒之謀、既以為世宗之廟、建之萬世、宣布天下。臣愚以為孝武皇帝功烈如彼、孝宣皇帝崇立之如此、不宜毀。」上覽其議而從之。制曰「太僕舜・中壘校尉歆議可。」


礼記』王制や『春秋穀梁伝』によれば「天子は七廟、諸侯は五、大夫は三、士は二」となっています。また『天子は昭が三つと穆が三つ、太祖と合わせて七。諸侯は二つと二つ、太祖と合わせて五』と言います。七廟は通常の制度の数であり、宗はそこに含まれないのです。宗とは変わることであり、功績や徳があったならば数に関係なく宗とすべきで、限界数を設けるべきではないのです。
故に殷では太甲が太宗、大戊が中宗、武丁が高宗とされました。宗には数の限度はなく、広く君主の功徳を勧奨するのもなのです。七廟の制度に当てはめると、武帝はまだ廃止対象ではありません。宗とすべきかどうかで言えば、武帝に宗たる功徳が無いとは言えません。
ある者は天子は五廟と主張しておりますが要出典であり、また中宗・高宗は徳があって宗となったがその廟を廃止したと言っていますが、これは名実が乖離しており、徳や功を尊ぶことにはなりません。廟の廃止については定めがあり、特別な功徳がなければ皇帝との世代の近さによって廃止していくものですが、祖宗の序列や数については経や伝にも明文が無く、疑わしい文や偽りの説により定めるのはよろしくありません。
宣帝は大臣の集議によって武帝を世宗の廟とし天下に布告しました。私が思うに、武帝の功績はあのようであり、宣帝による尊重もこのようであったので、廃止すべきではありません。」
哀帝はそれに従い、王舜・劉歆の説を裁可した。


ついに炸裂する爆弾発言。


「天子の廟が五つとか誰が言ったの?
 天子は三昭三穆で太祖と合わせて七廟。
 太宗とかの『宗』は別腹だよ?」


韋玄成とか匡衡とかの議論を真っ向から否定。


そして、これこそが今後皇帝廟制度において続く「○宗」乱立の端緒と言えるだろう。
「○宗」は太祖+三昭三穆の七廟とは別だから何人いてもいいんだよ、と言っているのだ。

隋唐以降、皇帝全員に「○宗」という廟号が与えられるのは、ここに由来すると言っていいのではなかろうか。
その意味では歴史の転換点だったのである(大袈裟)。流石は劉歆。



なお、この発言の中で武帝はまだ廃止対象じゃないというのはこういうことである。
これまでは「太祖+太宗+5廟」で七廟となっていたのが、この劉歆らの説によれば「太祖+6廟」(+○宗は制限なし)で七廟となる。
つまり

  1. 武帝
  2. 昭帝
  3. 考皇
  4. 宣帝
  5. 元帝
  6. 成帝

なので、哀帝の時点では武帝を「○宗」として別格にしなくても6廟に入っているということなのである。