『漢書』韋玄成伝その8

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20110614/1307977304の続き。

久之、上疾連年、遂盡復諸所罷寢廟園、皆修祀如故。
初、上定迭毀禮、獨尊孝文廟為太宗、而孝武廟親未盡、故未毀。上於是乃復申明之、曰「孝宣皇帝尊孝武廟曰世宗、損益之禮、不敢有與焉。他皆如舊制。」唯郡國廟遂廢云。

しばらくして、元帝は年をまたいで病んでいて、ついに廃止していた陵墓や正殿、廟を復活し、以前のように祭祀を行わせるようにした。
最初、元帝が廟の廃止を定めた時、文帝廟だけを太宗とし、武帝廟についてはまだ廃止時期ではないということで廃止しなかった。元帝はここでまたこのことについて宣言した。
「宣帝は武帝廟を世宗とした。廟の増減についての礼は、世宗に及ぶことがないようにする。他は旧制の通りとせよ」
郡国廟だけは廃止したままとした。


病気が続く元帝は、結局は廟制を韋玄成以前に戻した。宗廟も、孝文太后らの陵墓も復活である。
戻す時はたった数文字。それなら前回みたいに長々と読みにくい文とか作るなと小一時間問い詰めたい


武帝についての宣言は、たぶん「武帝も世宗ってことで特別扱いだから廃止とかの対象外にしようね!」ってことだと思う。
ここだけが韋玄成以前の制度との変更点ということだ。
この追加がこの後また議論の種となるのだった。


唯一、郡国廟だけは廃止のままとなった。
貢禹、韋玄成、匡衡らの積み上げたことは何もかも無駄になったわけではないということだ。