李信の嫁取り

(牽)招子嘉嗣。次子弘、亦猛毅有招風、以隴西太守隨訒艾伐蜀有功、咸熙中為振威護軍。嘉與晉司徒李胤同母、早卒。
(『三国志』巻二十六、牽招伝)

三国時代、魏の牽招。
彼の後継ぎ息子は牽嘉といったが、この牽嘉は晋の司徒李胤という人と同母兄弟だという。
姓が違うということは父は違うわけで、異父兄弟ということになる。



李胤字宣伯、遼東襄平人也。
祖敏、漢河内太守、去官還鄉里、遼東太守公孫度欲強用之、敏乗輕舟浮滄海、莫知所終。
胤父信追求積年、浮海出塞、竟無所見、欲行喪制服、則疑父尚存、情若居喪而不聘娶。後有鄰居故人與其父同年者亡、因行喪制服。燕國徐邈與之同州里、以不孝莫大於無後、勸使娶妻。既生胤、遂絶房室、恒如居喪禮、不堪其憂、數年而卒。
胤既幼孤、母又改行、有識之後、降食哀戚、亦以喪禮自居。又以祖不知存亡、設木主以事之。由是以孝聞。容貌質素、穨然若不足者、而知度沈邃、言必有則。
(『晋書』巻四十四、李胤伝)

李胤さんはどういう人かと調べてみたら、親子二代でとんだ孝行モンスターだった。

李胤の祖父は公孫度から逃げて消息を絶った。

その子(李胤の父)李信は父親を捜したが発見できず、行方不明のまま喪に服した。
しかし子孫を残さず断絶することこそ不孝だという徐邈さんの説得で結婚し子供を残した。
それが李胤である。

しかし李信は李胤が生まれるとまたすぐ服喪モードに戻り、おそらくガチ服喪を続けすぎて衰弱死したと思われる。
子を成すためだけの結婚というのが丸わかりすぎる。超露骨。


李胤は李胤で服喪状態が普通の生活というトンデモない状態。これは当時の人間でも引くレベルだったんじゃないだろうかと思わないでもない。



そして李胤の母だが、おそらくは李信が死んで以降に牽招と再婚したのだろう*1

徐邈は李信と知り合いであると同時に牽招の郷里安平の太守をしていたこともあり、双方に関係がある。彼がそのあたりの縁を取り持ったのかもしれない。


*2

*1:「母又改行」というのはもしや別の男と再婚したことを指しているだろうか?

*2:誤解を招くようなタイトルなのはただの故意です。