十二月平帝崩、大赦天下。莽徴明禮者宗伯鳳等與定天下吏六百石以上皆服喪三年。
奏尊孝成廟曰統宗、孝平廟曰元宗。
時元帝世絶、而宣帝曾孫有見王五人、列侯廣戚侯顯等四十八人、莽惡其長大曰「兄弟不得相為後。」乃選玄孫中最幼廣戚侯子嬰、年二歳、託以為卜相最吉。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)
前漢の平帝が死んだ時、権力者王莽は平帝廟に「元宗」、そして平帝の一つ上の世代の成帝廟に「統宗」という廟号を贈った。
ある意味ではとても漢王朝への忠誠と思慕の心篤い行動と言える。
体制の破壊者、簒奪者というのは保守派、愛国者の顔をして現れるモノなのかもしれない。
別の話。
王莽は平帝の次の後継者を選ぶ際、平帝の同世代が何人も健在だったが、それをスルーするための理由として「兄弟(同世代)はお互いに後継者にはなれない」と述べている。
傀儡向きの子供を立てたい王莽の方便と解釈されているし実際そういう側面が強いのだろうが、「兄弟が後継者にはなれない」というのは当時の廟制や後継者制度の原則の一つではあったのだと思われる。