東海王と魯相

建武)二十八年春正月己巳、徙魯王興為北海王、以魯國益東海。
(『後漢書』本紀巻一下、光武帝紀下)

光武帝は自分の長男長男東海王彊のため、魯王を配置換えして魯国を東海国に付けてやった。東海王の領地は東海国と魯国の二つ分になったのである。

(東海王劉)彊臨之國、數上書讓還東海、又因皇太子固辭。帝不許、深嘉歎之、以彊章宣示公卿。初、魯恭王好宮室、起靈光殿、甚壯麗、是時猶存、故詔彊都魯。
・・・(中略)・・・
子靖王政嗣。政淫欲薄行。後中山簡王薨、政詣中山會葬、私取簡王姬徐妃、又盜迎掖庭出女。豫州刺史・魯相奏請誅政、有詔削薛縣。
(『後漢書』列伝巻三十二、東海恭王彊伝)

で、その東海王が若くして死んだあと、その子劉政が継いで以降のことである。
劉政は少々アレな人だったらしく、不行状を告発されて領地の県をボッシュートされた。


その際に告発したのは「豫州刺史・魯相」。

『続漢書』郡国志によれば東海国は徐州に属している。豫州なのは魯国である。

また、「魯相」ということは魯王の存在を前提にしているが、魯国は東海国に付けられたのではなかったか。
劉政の行状をチクるということは、この魯相の名目上の主君は劉政ということだろうか。劉政は豫州刺史の管轄にも領地を持っていたということだろうか。



もしかすると、当時、東海王は「東海国」と「魯国」の二つの王国の王を兼ねる状態だったのだろうか。つまり「東海=魯二重王国」である。
王国の「相」も「東海相」と「魯相」が別々に存在していたのだろうか*1



さらにもう一つ。
後漢末、東海王が同時に二人いたんじゃないか(東海王の名前、就任時期に矛盾がある)という疑問がある。
これについてはid:AkaNisin氏がhttp://d.hatena.ne.jp/AkaNisin/20101117/1289920698などで挙げているのだが、これ、一方の東海王は実は「魯王」だったんじゃないだろうか。


これは少々妄想が過ぎるかもしれないが、東海恭王彊の子孫である「東海王」はどこかの段階で「東海=魯二重王国」の王から「魯国」だけの王になっていて、「東海国」は献帝の子に譲り渡していたのではないだろうか。

後漢書』は東海恭王彊の子孫が二重王国を解消し(自発的なのか強制されたのかはともかく)、魯国だけの王になったことを書き漏らしていたりはしないだろうか。

*1:後漢末の魯相張遼など、魯相は後漢時代に何人か確認できるが、魯王は東海国に付けられる前の魯王興を除いて名前が見えない。