http://blogs.yahoo.co.jp/daradarasangokusi/9246346.html
先日に続いて人のふんどしで相撲取らせてもらう。
以下、上記リンク先を参考に妄想を膨らませてみた。
董卓に対し曹操がいち早く反旗を翻した。『三国志』武帝紀はそう記している。
(董)卓遂殺太后及弘農王。太祖至陳留、散家財、合義兵、將以誅卓。冬十二月、始起兵於己吾。是歳中平六年也。
(『三国志』巻一、武帝紀)
しかしながら、上記の一文には少々問題がある。
董卓が中平六年(西暦189年)中に殺害するのは何太后だけ。
献帝の前の皇帝だった弘農王が殺されるのは翌年(初平元年、西暦190年)なのだ。
ということは、曹操は弘農王が殺される前から反旗を翻していることになる*1。
これについての解釈は二つある。
一つは、曹操の決起が弘農王殺害を招いたかもしれないということ。
もう一つは、当時の曹操は「弘農王の生死にかかわらず、今の皇帝は認められない」と考えていたかもしれないということ。
もし前者だったら、曹操は故意ではなかったとしてもとんだ不届き者である。
史書の時系列を捻じ曲げてでも、魏関係者としては隠蔽したい事であろう。
後者だとしたら、当時の曹操は「献帝とは共に天を戴かず」と考えていたことになってしまう。まだ弘農王が生きていたのだから、挙兵は「董卓倒して献帝廃位して正統なる皇帝(弘農王)を復位させる」ことが最終目的ということだ。
これはこれでマズイ。
曹操は献帝を擁立したのだから。
かつて先頭切って否定しておいて後からその皇帝を擁立するという酷い矛盾を露呈してしまう。
これはこれで事実関係を変えておきたい。
弘農王が死んでからの挙兵ということになれば、「逆臣を討つための挙兵」ということになる。献帝の正統性自体は認めていたと言い張ることができる。