究明

文帝即王位、誅丁儀・丁廙并其男口。
(『三国志』巻十九、陳思王植伝)

魏の文帝曹丕は魏王になると後継争いのライバル曹植の味方をしていた丁儀・丁廙兄弟をその一家の男性もろとも誅殺した。

或云丁儀・丁廙有盛名於魏、(陳)壽謂其子曰「可覓千斛米見與、當為尊公作佳傳。」丁不與之、竟不為立傳。
(『晋書』巻八十二、陳寿伝)

その丁儀兄弟といえば、世の三国志ッ娘の間ではこの陳寿との絡みで有名である。

陳寿は丁儀兄弟の子に対し、「僕と契約して君のパパのために良い列伝を残してあげてよ!」と持ちかけた。
しかしその丁氏の子はそれを断ったので、高名だった丁儀兄弟の列伝は陳寿三国志』に収録されていないのだ、と。



この件については、「丁兄弟は一家挙げて殺されているのに、どうしてその子に賄賂もちかけることができるんだ?」と反論されたり、「俺の陳寿がこんなにあくどいわけがない」と非難されたりして、「ハハッこれだから『晋書』は」とかも言われていたりもする。



だが待ってほしい。

「誅丁儀・丁廙并其男口」だから、女子は殺されていないとみるべきだろう。

そして、「壽謂其子曰」はどこにも男子しかありえないという証拠はない。女子かもしれないではないか。



「いや、「子」としか書いてないならふつうは男だろ」という反論もあるかもしれない。

だがこれはまだ反論として十分ではない。


仮に女子ではなく男子だと仮定したとしても、「遺腹子」の可能性を忘れてはならない。

漢有右將軍安陽侯(上官)桀、生安、車騎將軍・桑樂侯、以反伏誅。遺腹子期、裔孫勝、蜀太尉。
(『新唐書』巻七十三下、宰相世系表三下、上官氏)

族滅されたはずの前漢の上官氏には、「遺腹子」つまり父の死後に生まれた子がいたという。
その遺腹子は父や一族が族滅されていても殺されることがなかったということになる*1


陳寿が賄賂を要求したと言われる丁氏の子も、このような「遺腹子」だったのかもしれないではないか。



丁儀兄弟が一家の男子全員と一緒に殺されたことは、陳寿が丁儀兄弟の子に賄賂をもちかけたことを否定することにはならないのである。


*1:信憑性そのものを疑問視する向きもあるだろうが、仮にこの系譜が出鱈目であったとしても、遺腹子は処刑されず生き残るという可能性があったからこそこういう系譜がでっちあげられるのではないだろうか。