夏侯和

世語曰、(夏侯)和字義權、清辯有才論。歴河南尹・太常。
(『三国志夏侯淵伝注引『世語』)

相國左司馬夏侯和・騎士曹屬朱撫時使在成都、中領軍司馬賈輔・郎中羊葰各參會軍事。
(『三国志元帝紀、咸熙元年八月癸巳詔)

夏侯淵の子の夏侯和は河南尹や太常になったという。

一方、司馬氏が蜀を滅ぼした戦の際、相国左司馬に夏侯和という人物がいる。


河南尹にまでなるような人物がここで相国左司馬は出世が遅いから別の人物か・・・と思った。


初、帝疾篤、朝廷屬意於攸。河南尹夏侯和謂充曰・・・(略)・・・帝聞之、徙和光祿勳、乃奪充兵權、而位遇無替。尋轉太尉。
(『晋書』賈充伝)


でもおそらく違う。よくよく調べてみれば、夏侯和が河南尹になるのは晋の時代になってからのようなのだ。
おそらく太常になるのも晋代での話だろう。
魏末の頃はまだ相国左司馬くらいでも不思議ではない。

つまり上に挙げた相国左司馬の夏侯和は夏侯淵の子だろう。


彼は魏ではなく、司馬氏の元で働くことを選んだということなのだろうか。