『晋書』景帝紀を読んでみよう:その1

帝紀https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/07/21/000100)の次は景帝紀にする。





景皇帝諱師、字子元、宣帝長子也。
雅有風彩、沈毅多大略。少流美譽、與夏侯玄・何晏齊名。晏常稱曰「惟幾也能成天下之務、司馬子元是也。」
魏景初中、拝散騎常侍、累遷中護軍。為選用之法、舉不越功、吏無私焉。
宣穆皇后崩、居喪以至孝聞。
宣帝之將誅曹爽、深謀祕策、獨與帝潛畫、文帝弗之知也、將發夕乃告之。既而使人覘之、帝寢如常、而文帝不能安席。晨會兵司馬門、鎮靜内外、置陣甚整。宣帝曰「此子竟可也。」
初、帝陰養死士三千、散在人間、至是一朝而集、衆莫知所出也。
事平、以功封長平郷侯、食邑千戸、尋加衛將軍。
及宣帝薨、議者咸云「伊尹既卒、伊陟嗣事」、天子命帝以撫軍大將軍輔政。
(『晋書』巻二、景帝紀

景帝とは司馬懿の長男、司馬師の事。



同等の評判だったらしい夏侯玄とは義理の兄弟(夏侯玄の妹が司馬師の妻)。



宣穆皇后とは司馬懿の正妻にして司馬師の実母である張春華の事。




かの曹爽排除の際、司馬懿司馬師とだけ秘策を練り、司馬昭には計画実行の直前に知らせた。司馬昭はその夜寝付けなかったが、司馬師はいつもどおりスヤスヤであった、という。肝が据わっていたという事か。


また3000人もの私兵を密かに養い、誰も気づいていなかったが計画実行に際し一夜にして集まってきた、という話も伝わる。



これは司馬懿司馬師による曹爽排除の計画が周到に練られたもので、かつ「死士」などという物騒な連中を数千人も用意するという、一歩間違えれば反乱者として処刑されるような危険なものだったという事を示していると言えよう。



司馬師はこの曹爽に対するクーデターにおいて極めて重要な役割を果たしたと思われ(司馬懿が高齢だった事を考えると、司馬師の方が中心であったとしても不思議ではない)、司馬懿が死ぬとその権力の事実上の後継者に推された。




伊陟というのは殷の時代に王を放逐した宰相伊尹の子。伊尹の死後(すぐにではない)に伊陟も宰相になった。



それにしても、ここで司馬懿親子を伊尹親子になぞらえるというのは、後々の事を考えると少々意味深である。