漢寧郡

巴・漢皆降。復漢寧郡為漢中。分漢中之安陽・西城為西城郡、置太守。分錫・上庸郡、置都尉。
(『三国志武帝紀、建安二十年)

雄據巴・漢垂三十年。漢末、力不能征、遂就寵(張)魯為鎮民中郎將、領漢寧太守、通貢獻而已。民有地中得玉印者、群下欲尊魯為漢寧王。魯功曹巴西閻圃諫魯曰「漢川之民、戸出十萬、財富土沃、四面險固。上匡天子、則為桓・文、次及竇融、不失富貴。今承制署置、勢足斬斷、不煩於王。願且不稱、勿為禍先」魯從之。韓遂馬超之亂、關西民從子午谷奔之者數萬家。
(『三国志張魯伝)

後漢末、建安二十年に曹操張魯が拠る漢中を征服した。


そこで、漢寧郡を漢中郡と戻すと共に、錫郡、西城郡、上庸郡を設置したという。
つまりそれまで漢中郡は漢寧郡だったのだ。


張魯伝によれば、いつからか不明だが張魯は漢寧太守に任命されている。

つまり、張魯の支配域は漢中郡ではなく、漢寧郡であったことになる。


もしかすると、漢中郡の一部(大部分)を制した張魯の勢力圏を追認すると同時に、他の県には支配権が無いことを確認させるために、漢中郡の一部を切り離して独立させたものが漢寧郡なのかもしれない。