王朝が交代するということ

黄初元年十一月癸酉、以河内之山陽邑萬戸奉漢帝為山陽公、行漢正朔、以天子之禮郊祭、上書不稱臣、京都有事于太廟、致胙。封公之四子為列侯。追尊皇祖太王曰太皇帝、考武王曰武皇帝、尊王太后曰皇太后。賜男子爵人一級、為父後及孝悌力田人二級。以漢諸侯王為崇徳侯、列侯為關中侯。以潁陰之繁陽亭為繁昌縣。封爵筯位各有差。改相國為司徒、御史大夫為司空、奉常為太常、郎中令為光祿勳、大理為廷尉、大農為大司農。郡國縣邑、多所改易。更授匈奴南單于呼廚泉魏璽綬、賜青蓋車・乘輿・寶劍・玉玦。
(『三国志』文帝紀


魏の文帝曹丕が漢の献帝より皇帝の位を譲られた後のこと。
相国が司徒など、宰相や大臣の官名に変更が加えられた。

これはつまり、魏王国における宰相・大臣の官名を、王国ベースから王朝ベースにランクアップさせているのである。
郎中令などの旧名は王国の官位で、光禄勲などの雅名は皇帝の大臣にだけ許されるものなのだ。


ということは、漢から魏への禅譲というのは、最低でも宰相、大臣そのものがごっそり交代し、それまで魏王国の宰相や大臣だった者がそのまま皇帝の宰相や大臣にクラスチェンジするというのものなのである。


元々の漢王朝の大臣たちは当然行き場をなくしていることになる。

行き場をなくした漢王朝の元大臣がどれだけいたのか、魏王朝で再雇用されたのか、ちょっとよくわからないのだが、ともあれ王朝交代というのは禅譲によるものであっても弱肉強食なのであった。