『三国志』武帝紀を読んでみよう:その33

その32(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/01/07/000100)の続き。





十六年春正月、天子命公世子丕為五官中郎將、置官屬、為丞相副。
太原商曜等以大陵叛、遣夏侯淵徐晃圍破之。
張魯據漢中、三月、遣鍾繇討之。公使淵等出河東與繇會。
是時關中諸將疑繇欲自襲、馬超遂與韓遂・楊秋・李堪成宜等叛。遣曹仁討之。超等屯潼關、公敕諸將「關西兵精悍、堅壁勿與戰。」
(『三国志』巻一、武帝紀)

魏武、息子の魏文を丞相の副とする。普通に考えれば、これは事実上の後継者指名である。




太原郡での反乱は夏侯淵徐晃によって鎮圧。なお反乱者商曜は斬られている。



後(馬)騰與韓遂不和、求還京畿。於是徴為衛尉、以超為偏將軍、封都亭侯、領騰部曲。
超既統衆、遂與韓遂合從、及楊秋・李堪成宜等相結、進軍至潼關。
(『三国志』巻三十六、馬超伝)

馬超は父馬騰から兵を引き継ぎ、馬騰とは不和であったという韓遂らと結んで挙兵した。



漢中の張魯を攻めるという話なのに河東郡に軍が集結しているからか、馬超韓遂らの三輔・涼州の諸将は自分たちを騙し討ちするつもりなのではないかと疑ったという。




韓遂馬超之亂、關西民從子午谷奔之者數萬家。
(『三国志』巻八、張魯伝)

なお、皮肉にも当初の目標だったはずの張魯はこの時の反乱によって数万世帯が避難してきて人口を増やしたのだそうな。