郡名の変遷

獻帝初平六年、征東中郎將安漢趙穎*1建議分巴為二郡。穎欲得巴舊名、故白益州劉璋、以墊江以上為巴郡、江南龐羲為太守、治安漢。璋更以江州至臨江為永寧郡、朐忍至魚復為固陵郡、巴遂分矣。
建安六年、魚復蹇胤白璋、爭巴名。璋乃改永寧為巴郡、以固陵為巴東、徙羲為巴西太守。是為三巴。
(『華陽国志』巴志)

巴東郡、先主入益州、改為江關都尉。建安二十一年、以朐忍・魚復・漢豐・羊渠及宜都之巫・北井六縣為固陵郡。武陵康立*2為太守、治故陵溪會。章武元年、朐忍徐慮、魚復蹇機以失巴名上表自訟。先主聽復為巴東。
(『華陽国志』巴志)

後漢末、益州牧の劉璋劉備の元で巴郡はしばしば分割や改称の対象となった。




劉璋の時に巴郡と永寧郡と固陵郡に分割された時は、魚復県の人である蹇胤が「巴」の名称を入れるべきと進言したため、元の巴郡を巴西、永寧を巴郡、固陵を巴東と改称することとなった。



劉備の時にはいったん巴郡の一部に戻ったらしい巴東郡は、宜都の一部と再編されてまた固陵郡にされたが、魚復県の人である蹇機が郡名から「巴」の名前が失われたことについて上奏し、劉備は巴東郡という名を復活させることとした。





魚復県の蹇氏からあふれる「巴」愛が尋常じゃない。




*1:趙韙のことのようである。

*2:廖立のことであろう。