符節令

(楊)奉得書喜悦、語諸將軍曰「兗州諸軍近在許耳、有兵有糧、國家所當依仰也」遂共表太祖為鎮東將軍、襲父爵費亭侯。(董)昭遷符節令。
(『三国志』董昭伝)

後漢末の董昭は曹操と共に楊奉を騙し、楊奉曹操を鎮東将軍につけ、曹操に皇帝(献帝)に近づくチャンスを与えてやった。同時に、董昭を符節令につけてやった。
楊奉曹操によって皇帝を奪われて追われることになるが、董昭はそのまま曹操シンパとなって曹操支配下の朝廷に収まることとなった。

符節令一人、六百石。本注曰、為符節臺率、主符節事。凡遣使掌授節。尚符璽郎中四人。本注曰、舊二人在中、主璽及虎符・竹符之半者。符節令史、二百石。本注曰、掌書。
(『続漢書』百官志三、少府)

彼が就任した符節令はこのように皇帝の命令をつかさどる節、軍の動員を命じる符、そして皇帝の命令書に封をするためのハンコすなわち璽などを管理する官であった。

殿中嘗有怪、一夜群臣相驚、光召尚符璽郎、郎不肯授光。光欲奪之、郎按劍曰「臣頭可得、璽不可得也!」光甚誼之。明日、詔増此郎秩二等。衆庶莫不多光。
(『漢書』霍光伝)

符節令の部下の尚符璽郎はこのように皇帝の璽を保管する官であり、この例では当時の最高権力者霍光でさえも彼から璽を好き勝手に借り出したり奪ったりはできなかったのである。
(もちろん、その官にある者次第では逆に権力者が璽を使い放題になる可能性も否定できない。)
尚書令ほどではないにしろ皇帝側近の要職であると言っていいだろう。


そこに彼を就けたのは楊奉が董昭をそれだけ感謝していたということなんだろうが、もしかするとこれが曹操と董昭の共謀により楊奉らの追い落としを余計にやりやすくした可能性もあるかもしれない。