營州刺史

分遼東郡為遼西・中遼郡、置太守。越海收東萊諸縣、置營州刺史。自立為遼東侯・平州牧、追封父延為建義侯。立漢二祖廟、承制設壇墠於襄平城南、郊祀天地、藉田、治兵、乘鸞路、九旒、旄頭羽騎。太祖表(公孫)度為武威將軍、封永寧郷侯、度曰「我王遼東、何永寧也!」藏印綬武庫。
(『三国志公孫度伝)

後漢末に遼東の地で事実上独立していた公孫度
彼は、郡はおろか州まで新設しているのが分かる。


その新設州について面白いことがある。
彼が勝手に作った營州刺史は東萊郡の県によって構成されていたらしい。

実質的にどこまで影響力を行使できたか不明だが、遼東から見て海(勃海)を挟んで向こう側にある青州まで、公孫度は勢力を伸ばしていたようだ。


時代は下って三国鼎立後のこと。公孫度の子公孫淵が呉の孫権と誼を通じた。
これについては、魏支配下のはずの青州、徐州やその沿岸を孫権公孫淵の使者がどうやって往来したのか、と誰しも不思議に思う。


その件について、かつて自分はhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100831/1283180564で唐咨および利城郡の存在を指摘したが、もう一つ、公孫氏勢力が元々青州側に橋頭保を築いていたというのもあったのではないかと思われる。


呉と遼東の間には、徐州の中立的で反魏に限りなく近い地域と、青州の公孫氏影響下の地域が存在していたのだと考えられる。
それらの地域を有効に使えば、使者の往来くらいは十分できたのではないだろうか。