孫権の正妻問題

(徐)琨生夫人、初適同郡陸尚。尚卒、權為討虜將軍在呉、聘以為妃、使母養子登。後權遷移、以夫人妒忌、廢處呉。積十餘年、權為呉王及即尊號、登為太子、群臣請立夫人為后、權意在歩氏、卒不許。後以疾卒。
(『三国志』徐夫人伝)

(歩)夫人性不妒忌、多所推進、故久見愛待。權為王及帝、意欲以為后、而群臣議在徐氏、權依違者十餘年、然宮內皆稱皇后、親戚上疏稱中宮
(『三国志』歩夫人伝)

初、(孫)登所生庶賤、徐夫人少有母養之恩、後徐氏以妒廢處呉、而步夫人最寵。歩氏有賜、登不敢辭、拜受而已。徐氏使至、所賜衣服、必沐浴服之。登將拜太子、辭曰「本立而道生、欲立太子、宜先立后」權曰「卿母安在?」對曰「在呉」權默然。
(『三国志』孫登伝)


この上記三つの記事からは、孫権の太子だった長男孫登と、孫権の事実上の正妻だった歩夫人の間で政治闘争的な意味でのガチバトルが繰り広げられていたことがうかがえる。


孫登は父の実質正妻からの下賜はぞんざいな扱いしかせず、実母同然の徐夫人と明確に区別していたという。もうこれだけでも歩夫人に喧嘩を売っているレベルである。徐夫人を大事にしたというだけではなく、歩夫人に対しては(敢えて)礼を失していたというのだから。
さらに、太子に立てようとする父に対して「先に正妻をお決めください」と言い、「お前の母はどこにいる?」と孫権が聞けば、「呉におります」と言い放った。

正妻と太子ということは生物学的な関係は別にして「親子」である。
孫権の問いかけはおそらく孫登を試したのだ。誰を母と呼ぶ気なのか、歩夫人を母と呼べるのか、と。
しかし孫登の回答は「私の母は徐夫人だけです。歩夫人ではありません。徐夫人を正妻にお立てください」だった。
孫権が絶句したのは、あまりにも明確に歩夫人にNOを突きつけたからだろう。
これは父孫権の処置への否定でもある。


孫登の発言と共に気になるのは、「群臣」も徐夫人を正妻にしようと働きかけていたということだ。
「群臣」も歩夫人そして孫権にNOと言っていたのだ。


その一方で列伝を見る限りでは歩夫人は孫権の寵愛と後宮の支持を受け、正式に皇后とされていないまま事実上は皇后として扱われていたという。

後宮と「群臣」の間には深い深い断絶があったように思われる。

この状況では確かに皇后を立てるわけにもいかないだろう。
国が完全に二つに割れてしまう。



この「群臣」はどういう人々だったのか気になる。