南陽太守

(東里)袞後為于禁司馬、見魏略游説傳。
(『三国志』高貴郷公紀注)

東里袞は後漢末の南陽太守。
苛政のため反乱を起こされて侯音に捕えられるも辛くも助かり、反乱は曹仁が鎮圧した。

ではこのあと彼はどうなったのか。
その後は不明・・・ではなく、上記のとおり『魏略』に書いてあった。 

魏略曰・・・(略)・・・初東里袞為于禁軍司馬、前與(浩)周俱沒、又俱還到、有詔皆見之。帝問周等、周以為權必臣服、而東里袞謂其不可必服。帝悦周言、以為有以知之。・・・
(『三国志』呉主伝注引『魏略』)

どうやらこれが『魏略』游説伝の引用らしい。
東里袞はおそらく南陽の反乱の後、于禁の軍司馬となった。
そしてたぶん于禁とともに関羽に降伏し、これまた于禁とともに孫権の元へ連れて行かれることになったのだろう。
だが彼は于禁と違い死ぬことはなかったので孫権への使者となった、ということのようだ。

もう一人の帰還組である浩周は「孫権は降伏します!」と力説したが、東里袞は「無理っす。あいつそんなタマじゃないっす」と孫権の降伏を否定した。
魏の文帝は浩周の言葉を喜んだが、結果はご存じのとおりとなって文帝ガッカリということになった。
浩周がその後冷遇されるようになったらしいことは書かれてるが、東里袞がこれによって見直されたかどうかはわからない。